過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

カテゴリ:本・小説・映画( 51 )

 前回の記事にいただいたコメントへの返事に、私は次のように書いた。

私は、村上春樹は作家として「すごい」と思うけれど、好き嫌いで言ったら、あまり好きじゃないのですよね。人生観が違うのかも。


 好きじゃない理由として「人生観が違う」と書いたけれど、これはあまり正確ではないような気がする。どうして私は村上春樹に強烈な親近感や共感を覚えないのだろう?

 それが最近、内田樹の『もういちど村上春樹にご用心』という本を読んでいて(まだ全部読み終わっていないのだけれど)、この本によって先の疑問が少し解け始めた。

 内田樹という人は、大学の文学部の教授を最近退職した人で、ブログや新聞、雑誌、書籍上で、社会・教育・文化・政治などの様々なテーマを論じ、人気を博している。そして彼は、村上春樹の熱烈なファンだということを公言している。

内田さんは、この本の最初のほうで「村上春樹は世界中の人の心の琴線に触れるんだ」という言い方をなさってますが、アメリカ人やイギリス人と話していても、やはり「なぜ世界中でこんなに人気があるんだ?」って話題は出るわけですね。そうすると彼らは、「ハルキはなんらかの形で“ヒット・ザ・ナーヴhit the nerve”する」っていうんです。「神経を打つんだ」って。
(『もういちど村上春樹にご用心』柴田元幸との対談より)


 村上春樹の小説は、世界中の人々の心を打つらしい。なのになぜ私の心の琴線には触れないのだろう?それどころか、私は彼の小説を読むのがとっても「しんどい」んである。

 内田樹は村上春樹の作品を、次のように分析する。

 
村上春樹が世界的なポピュラリティを獲得したのは、その作品に「世界性」があるからである。
 …
 では、その「世界性」は何かということになると、これについて私はまだ納得のいく説明を聞いたことがない。そこで私の説を語る。
 村上文学には「父」が登場しない。だから、村上文学は世界的になった。
…(略)…
「父」とは「聖なる天蓋」のことである。
その社会の秩序の保証人であり、その社会の成員たち個々の自由を制限する「自己実現の妨害者」であり、世界の構造と人々の宿命を熟知しており、世界を享受している存在。それが「父」である。
 「父」は様々な様態を取る。「神」と呼ばれることもあるし、「預言者」と呼ばれることもあるし、「王」と呼ばれることもあるし、「資本主義経済体制」とか「父権制」とか「革命的前衛党」と呼ばれることもある。世界のすべての社会集団はそれぞれ固有の「父」を有している。

 村上春樹は、そういうローカルな世界ごとに異なる様相で現れる「父」を描かない、つまり父の不在を明らかにすることによって、村上春樹の作品は世界性を獲得したのだ、と内田樹は語る。

 人間は“「父」抜きでは、私がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、どこに向かっているかを俯瞰的、一望俯瞰的な視座から「マップ」すること”はできない。“地図がなければ、私たちは進むことも退くことも座り込むことも何も決定できない。”
 ところが、村上春樹は“地図がなくてもなんとかなるんじゃないか”と考えているまれな人々の中のひとりなのだ、と言う。

 
村上春樹は、この地図もなく、自分の位置を知る手がかりの何もない場所に放置された「私」が、それでも当面の目的地を決定して歩き始め、偶然に拾い上げた道具を苦労して使い回しながら、出会った人々から自分の現在位置と役割について最大限の情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。その歩みは物語の最後までたどりついても、足跡を残したごく狭いエリアについての「手書き地図」のようなものを作り上げるだけで終わる。
…(略)…
「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」
 これが村上文学に伏流する「問い」である。


 引用が長くなったが、この本を読んでようやく、なぜ私は村上春樹の作品を読むとき「しんどい」と感じるのか、なぜ私は村上作品をあまり好まないのか、少しわかったような気がした。
 きっと私は父の不在に耐えられないのだ。私はこの世界に枠を与える何かを欲している。何もない状態から、手書きの地図を作っていく作業の「しんどさ」に耐えられないのだと思う。


 村上春樹の解説本として、お薦めの一冊です。引用部分だけではわかりにくいと思いますので、興味のある方はぜひお買い求めください。
 amazon 『もういちど村上春樹にご用心』内田樹著



小春日和日記もよろしく



 
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by koharu65 | 2012-06-25 22:56 | 本・小説・映画
 防衛大学の開校祭で、毎年、棒倒しという競技が行われているそうだ。
 参考(ウィキペディア):
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%92%E5%80%92%E3%81%97#.E9.98.B2.E8.A1.9B.E5.A4.A7.E5.AD.A6.E6.A0.A1.E3.81.AE.E6.A3.92.E5.80.92.E3.81.97



 youtubeで見たのだけれど、これがすごく面白い。
 まさに肉弾戦。体と体のぶつかりあい。迫力満点で、見ていると自然と血沸き肉躍り、力がみなぎる興奮を味わうことができる。
 そして、ただ肉体の戦いというだけでなく、上の動画のように作戦が図に当たり味方同士の連携がスムーズにいく光景は、芸術的に美しい。
 この防衛大の棒倒しには、“死ぬ気で戦う”という激しさがある一方で、本当の危険を避けるためのいくつかのルールがちゃんと考えられているようだ。(例えば、空手道部やボクシング部の部員は参加できないとか。)
 それから、これは普段ちゃんと肉体的な訓練をしている人たちだからこそ、安全性が確保されるのだと思う。技術的な指導や訓練を前提とした上で成り立つ競技ではないかな。

 で、話がいきなり飛躍するようだけれども、これを見て思ったのは、コントロールされて技術的に研ぎ澄まされた力は、必ずしも野蛮ではない、ということ。
 無目的に増幅した負の感情に支配された暴力は恐ろしい。戦後日本人は、そういう暗い感情に支配された暴走する力を恐れるあまり、力の存在そのものをあってはならないものとして否定する傾向があるように思う。力を理性によってコントロールする手段や技術を学ぶことを怠ってきたのではないか、と思う。

 ついでに、さらに飛躍した話を。
 村上春樹の小説の男性の主人公は、いつも優しくて人を傷つけないタイプなので、一見彼の小説はやわらかで軽やかで、癒し的なイメージがある。でも、実はすごく怖いものを抱えてるんじゃないかと、私は思う。(だから、実をいうと、あまり好きではない。)
 『1Q84』に青豆さんというヒロインが登場するが、彼女は“強固な信念”のもとに、研ぎ澄まされた技術で人を殺す。
 ならば、村上春樹は、悪い奴を抹殺するという正しい目的のためなら、人を殺してもいい、と言ってるのだろうか?自分の強固な信念を正しいと信じて敵を討つ例は古今東西、数多くある。
 しかし、一方で、『1Q84』では、人を殺すことによって自分自身の心も削られていく青豆さんの張りつめたような危うい生き方も描いている。決して青豆さんの生き方が賛美されているわけではない。
 彼の小説は、実際にはあり得ない想像の世界の物語だけれど、その中に生きている人々は私たちの実際の世界をリアルに投影した問題意識を抱えているように思う。
 『1Q84』の登場人物たちは、強い者も弱い者も共に精神の底に暗いものを抱え込み、暴力を振るう者も振るわれる者も共に何か抵抗できない大きな流れに飲み込まれ、その生を損ねている。そんなふうに思う。
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by koharu65 | 2012-06-16 17:12 | 本・小説・映画

中国映画『失恋33天』

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2011年11月公開
監督:滕華涛
主演:文章、白百何


 大物キャストや大物俳優が出ているわけでもない、舞台もほとんどが北京市内のオフィスや路上、お店の中という低予算映画。にもかかわらず、公開されるやいなや、予想に反して大ヒットとなったそうです。
 ラブコメディーです。
 ストーリーは、『失恋33天(失恋して33日)』というタイトルそのまま、20代の女の子が失恋してから33日間の出来事や心の動きを映し出したもの。

 監督の滕華涛という人は、大ヒットドラマ『蝸居(かたつむりの家)』を撮った人だそうで、それを知って、この映画のおもしろさ、上手さ、に納得。『蝸居』と同じように、ごく普通の人々の生活と、生活の中での細やかな感情の移り変わりを丁寧に描いていて、好感と共感を覚えました。
 ただ、共感という面においては、特に男女の愛情のあり方に関して、やっぱり中国人独特の感覚があって、これは私が歴史物でない中国映画を見る時いつも感じることなのだけれど、どうしても無条件に感情移入できない場面もあります。だからこそおもしろいと言えば、おもしろいのだけれど。


*以下、ネタばれあり。ご注意を。  









 さて、ストーリーの要は、主人公の女の子が失恋によって、今までの彼氏との付き合い方を振り返り、なぜ駄目になったのかということに徐々に気づいていくところにあります。その過程に彼女の同僚の男性が大きく関わってきます。
 失恋して仕事も手に着かないくらいに落ち込んだ女性が立ち直るために必要なのは、新しい恋である、…というのは常套手段だけれど、私はこの男性はてっきり正真正銘のゲイだと思っていました。なので、彼女と彼との間に新しい恋が芽生える可能性を始めから除外して見ていたので、最後に、ええええ~、そうなの?とちょっとあっけにとられたところがあって、それは私の誤解と言えば誤解なのですが、もしかしたら、ドラマチックな展開を狙って、わざと観客にそう誤解させるよな描き方をしたのではないか、と勘繰らざるを得ません。だとすると、ちょっとあざとい感じがして、その点、気になりました。
 印象に残ったのは、ウェディングプランニングの会社に勤める彼女が顧客として知り合った老夫婦の描き方。話の流れとしては、男女の愛情の難しさを味わいはじめたばかりの若い女の子が、この酸いも甘いもかみ分けた老夫婦に関わることによって、何かを得る、ということだと思うのだけれども、この老妻が語る過去の出来事、夫の愛人とのやりとりが大変印象的でした。
 妻のしたたかで賢い対応によって夫婦関係が保たれる、というのは、古今東西、事実としては変わりがないのではないか、というのが私の個人的見解です。しかし、この映画の展開では、若い女性が年齢を経た女性から男女関係に関して何かを学ぶ、という場面において、お手本として出てくる老妻の賢さが、私から見ると、ちょっと怖いような感じすらするしたたかさで、この辺りの描き方が、先に書いた、無条件に感情移入できないおもしろさの部分とも言えるでしょう。
 
 いかにもゲイ風の若者が、最後には一転して男らしく告白したり、自信を持って愛人をしりぞけることが妻の正当な権利であり夫婦の基礎を強固にするものだったり、都市の若者の新しくおしゃれなライフスタイルや自由な恋愛を描きながら、その根底には確固とした道徳観が居座っているように感じました。
 『蝸居』と通じるところがあります。

 でもそんなややこしいことは抜きにして(物事を複雑に考えすぎるのは私の悪いくせなので)、映像はきれいだし、主役の二人のやり取りがコミカルだし、ストーリー展開もテンポがいいし、とても楽しめる映画でした。



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by koharu65 | 2012-05-24 21:51 | 本・小説・映画

1970年代の寅さん

 先日、1970年代の「男はつらいよ」を見た。

 渥美清の若さもさることながら、時代が今と比べてずっとワイルドで、人の言葉も生き方も遠慮がなく、体でぶつかりあっている力強さを感じた。
 日本らしい日本の風景と、日本人らしい日本人がリアルタイムで、映像の中に生きている。
 「ALWAYS三丁目の夕日」のような後世の目から見た郷愁ではない、リアルな70年代。(三丁目の夕日は60年代だけど。)

 寅さんの映画は、テレビの放映で最後の方のものもちょくちょく見ているけれど、始めの頃はテキヤという職業に就いている寅さんの、はぐれもの、やっかいもの、という側面が前面に出ててよかった。
 新しくなればなるほど、寅さんが「いい人」「教え諭す人」になっていく。
 時代とか、演じる渥美清さん自身の年齢のこととかあって、仕方のないことなのだろうけれど。

 仁義のきり方とか、口上がかっこいい!聞いていて、本当にしびれる。
 やくざ者の(職業としてのやくざじゃなくて、やくざな奴、という意味での。)そういう「かっこよさ」と、でもやっぱりしょせんまっとな社会では生きられない「悲しさ」「さびしさ」と、男はつらいよの初期の作品は、そのふたつがバランスよく描かれていると思う。

 そして、もうひとつ、最も大事なのは、そういう「はぐれもの」を、怒ったり泣いたり笑ったりしながら、受け入れている家族や地域の人々の存在。寅さんという存在を許す寛容さと懐の深さが当時の社会にはあったのではないのかな。
 「昔はよかった」的な話をするのは、あんまり好きではないのだけれど、でも、草食系という言葉が流行るように一見、今の時代、優しさが重視されるように見えるけれど、本当に優しいのかしら?と思うときがある。

 帰ってくる寅さんを無条件に受け入れる柴又の人たち、外からふらりと現れる旅人としての寅さんを受け入れる他郷の人たち、そいうところに日本人の原風景があるような気がしてならない。
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by koharu65 | 2012-05-20 17:43 | 本・小説・映画
 最近、夏目漱石の『吾輩は猫である』を読み直してみた。昔読んだはずなのに、内容を全然覚えていないことに気付く。そして、こんなに面白いものだったのか、と驚く。風刺とユーモアと哲学と。
 後半になるに従って猫の影が薄くなり、寒月と迷亭と独仙と苦沙弥、この四人の会話が中心になると、更に興が増し、哲学問答のようなやり取りの一句一句に夢中になった。しかし、おもしろい、おもしろい、と読み進めていたら、最後、酔っ払って甕に落ちた猫の描写にふいに足元をすくわれたような感じがして、ぞっとした。四賢人とともに言葉を弄んでいたら、急に自分も甕の中に落とされて、どうあがいても縁に手が届かない。まるで、どう言葉を弄そうとも、結局は自己が作り出す観念の外に出ることができず、もがき苦しむ人間のようで。

 
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by koharu65 | 2012-03-27 20:32 | 本・小説・映画
 村上春樹のエッセイ集、『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』(マガジンハウス/2011年)を読んだ。雑誌アンアンに連載されていたエッセイをまとめたもので、一回分が3ページしかなく、ちょっとした時間にちょっとずつ読める。
 最近布団に入るとすぐに眠くなってしまって、長い小説などは前後に行ったり来たりしてなかなか結末までたどり着けないのだけれども、この本はそういう時にちょっとずつ読むのにとても適している。

 この本の中で、村上春樹は、エッセイを書くに際しての3つの原則を挙げている。人の悪口を具体的に書かないこと、言い訳や自慢をなるべく書かないようにすること、時事的な話題は避けること。しかし、この3つの条件をクリアしようとすると、話題は限りなく「どうでもいいような話」に近づいていくのだと言う。

…僕は個人的には「どうでもいいような話」がわりに好きなので、それはそれでかまわないんだけど、ときどき「お前のエッセイには何のメッセージもない。ふにゃふにゃしていて、思想性がなく、紙の無駄づかいだ」みたいな批判を世間で受けることがあって、そう言われると「ほんとうにそうだよな」と思うし、また反省もする。…


 と、作家本人はそう書いているが、「どうでもいいような話」の連載をこうしてまとめて読んでみると、そこにはやっぱり何かしら一貫したメッセージが感じられる。それぞれの人間は、それぞれの「どうでもいいような」日常を、それぞれ大切にしながら生きているのだ、ということが、伝わってくる。

 本のタイトルの『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』は、エッセイの中の「おおきなかぶ」という話と「アボガドはむずかしい」という話、ふたつの題名をならべたもので、前者は有名なロシア民話を題材とした話、後者は熟したアボガドを見分けるのはむずかしいという話で、それぞれの個別で具体的な話には何ら特別なところがない、つまり「どうでもいいような話」にもかかわらず、そのふたつを『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』と並べると、そこに不思議な空間が現れる。「おおきいかぶ」と「むずかしいアボガド」という尺度の違う比べようのないものを並列に置くことによって、相関性のないふたつの世界が同時に成立する空間を作りだしている。
 小説を通して世界に向けられた村上春樹のメッセージが、エッセイでもまた同じように世界に向けて語られている。

 夜ごと読むたびにページ数が残り少なくなっていくのが惜しいと思う珠玉のエッセイ集であった。
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by koharu65 | 2012-03-18 20:46 | 本・小説・映画

中国映画『鬼が来た!』

 少し前に、『譲子弾飛(弾丸を飛ばせ)』という中国映画の感想を書き、その際最後の方で、同じ監督の『鬼子来了(鬼が来た)』という映画に少し触れた。
 (以前の記事:http://koharu65.exblog.jp/17547247/
 これは2000年公開の中国映画で、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞した作品である。監督は姜文。

 舞台は1945年、終戦間近の中国大陸。素朴で善良な人々が住むある小さな村に、闇にまぎれて現れた男が、ひとりの日本兵の捕虜を、数日という約束で村人に預ける。ところが約束の日を過ぎても男は戻らず、村人たちは捕虜の扱いに困ってしまう。
 自分たちの食料すらおぼつかない中、やっかい者でしかない捕虜を殺すか殺さざるべきか。村人たちは何日も侃々諤々の議論を交わす。日常生活を営む中で、目の前の一人の人間を殺すことがどんなに困難なことであるか。村人と日本人捕虜とのユーモアたっぷりの奇妙なやり取りがしばらく続く。
 ところが、日本軍の部隊の隊長が舞台に現れると、この友情物語はたちまち殺戮の場面へと変容する。
 そして終戦後、支配層が国民党に取って代わられると、その国民党のリーダーの命令によって、公開処刑が行われる。首を切られるのは、日本の部隊に虐殺された村人の生き残り。男は復讐に駆られ、国民党に捕らわれた日本兵の捕虜を次々と切り殺し、捕虜を殺した罪で公開処刑されるのだった。
 日本軍を駆逐した中国の部隊を必ずしもヒーローとして描いていないところからして、この映画は確かに単純な反日映画ではない。「鬼」というのも、日本人だけを指しているのではない。おそらく「鬼」というのは、日常生活で人間と人間との間に自然に醸し出される情を踏みにじるような非人間的な存在を象徴しているのだと思う。
 ラスト近く、公開処刑の場面では、同胞の首が切られるというのに、見物に集まった中国人たちの好奇心いっぱいの、にやにやした顔が映し出される。ここで私は魯迅を思い浮かべた。これは100年も昔に魯迅が指摘した人間の愚かさではなかったか。魯迅はペンをもって愚かな人間の精神を変容せんとした。この映画には魯迅ほどの切実な思いが込められているだろうか。

 
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by koharu65 | 2012-03-16 23:15 | 本・小説・映画

中国映画『譲子弾飛』

 中国映画『譲子弾飛』(弾丸を飛ばせ)を見た。大陸では昨年大きな話題を呼び、興行的にも大成功を収めたという。日本では未公開。

 2010年12月公開
 監督:姜文
 主演:姜文、周潤発、葛優、劉嘉玲、陳坤など

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 辛亥革命(1911年)後、未だ統一ならず軍閥が割拠する中国を舞台として、元革命家の匪賊と、地方へ派遣される県の長官と、地元の有力者との、三つ巴の知恵と肉体の戦いを描く。
 誰が正義で誰が悪で、誰が味方で誰が敵かがわからないようなところ、権謀術数の嵐、二転三転する人間関係、など、おお、これぞ三千年の天下取りの歴史を繰り返す中国ならでは、といった感じだ(この映画では天下取りと言っても、小さな町の支配権争いにすぎないが)。

 中国きっての三大俳優の競演という華々しさ、息もつかせぬ騎馬戦、銃撃戦、肉弾戦のシーン、暗喩に満ちたセリフ、などから大評判のヒット作となった。
 まあ、評判どおり、確かにおもしろかったことはおもしろかった。暗喩や故事成語の引用だらけのセリフをすべて理解するにはネイティブでさえ難しいようだが、セリフ抜きにして、三人のベテラン男優の演技の迫力に終始圧倒される。

 この作品が評判となったひとつの理由に、先程も少し触れたセリフや設定の暗喩がある。100年前の時代を借りて、現代の政治を風刺していると、ネットを中心として話題になった。
 しかし、私は、現実の社会に一石を投じる程の風刺の力を、この映画の映像とストーリーから感じ取ることはなかった。それは私の中国語の理解能力不足に起因するものではないと思う。映像も音楽もストーリーも演出も演技も全部ひっくるめて映画全体がひとつの作品である以上、セリフの一部や設定の暗喩を理解できるかどうかによって、作品全体から受ける印象が大きく変わることはないと思う。
 そして、この作品に対する私の印象は、皮肉や風刺の調味料をぱらぱらと振りかけた娯楽映画だということ。ほのめかしによって観客に後からあれこれ想像させたり議論させたりする手法は、単に知的好奇心を誘う遊戯にすぎない。ある日本の論評では、よくぞ検閲を通ったと大げさに書いてあったが、これはむしろ当局が、これを、社会に大きく影響を及ぼすような作品ではない娯楽映画だと、判断したからこそではないか。

 これだけメジャーな俳優を用い、活劇としての面白さを備えた映画であるにもかかわらず日本で未公開なのは、セリフや一部の設定のわかりにくさから日本語訳が難しいという部分が大きいのではないだろうか。だとすると、余計な調味料を振り掛けて本来の味を損なうより、純粋な娯楽映画として仕上げた方が、マーケットをもっと広げることができたかもしれない。

 以前、『鬼子来了(鬼が来た)』というこの監督の作品を見た。これにも私はあまり感心しなかった。社会や人間の醜い部分を暴いて、人が描かないものを描いたといって持ち上げるのは、簡単すぎる。泥の中から何を掬い上げ、どんな花を咲かすのか、私が芸術作品としての映画に期待するのは、新しい世界観を切り開く力である。

 
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by koharu65 | 2012-02-26 18:04 | 本・小説・映画
 『デボラの世界』ハナ・グリーン著(みすず書房)。
 ここ数年読んだ本の中で一番心を動かされた。

 十六歳の少女の、三年間にわたる精神病院での生活と、狂気から現実への旅路をえがいた小説(単行本裏表紙の紹介より)である。

 ほとんど徹夜で一気に読みきった。デボラは果たして現実を取り戻すことができるのか、祈るような気持ちで読み進めた。
 これは小説ではあるが、精神病理学の知見をふまえて分裂病という病気の構造が正確に描かれ、かつ患者本人の視点から彼女の内部に起きている出来事が語られているので、患者を外側から観察する医学書よりずっと生き生きと人間の精神の実態を伝えていると思う。
 デボラが現実に戻るための戦いを手助けする精神科医が登場するが、実在の精神科医フリーダ・フロム=ライヒマンをモデルにしたと言われている。

 現実の世界はデボラにとって、彼女の自由な精神を絶え間なく圧迫し、静かな死へと導く冥土の世界であった。その中でデボラは自分を守るために、自分だけの精神世界を作り出していく。作り上げた、始めは美しかったその想像の世界にすがることでしか彼女は自分を守ることができなかった。そして、その想像の世界は次第に彼女の現実を侵食し、混乱を引き起こすようになる。彼女は現実から乖離し、実際上の生活を営むことが困難になり、ついには自殺未遂を起こす。
 しかし、この行為こそ実は、“生きたい”という彼女のサインであった。両親は自分の娘が普通と違うことを認めたくないために、精神病院へ入院させることを躊躇するのだが、デボラにとって自分の病気は一番身近で明白な現実であるのに、それすら否定される、信じてはいけないと言われる、そのこと自体が彼女にとって行き場を失う耐えられない現実でもあった。
 デボラは健康的な生を渇望していたがゆえに、サインを出した。普通に現実を生きることのできない病気の自分を治したいのだと。
 
 現実に戻るためのデボラの戦いは困難を極める。優秀な精神科医の助けがあり、しかも生への希望を失っていない十六歳という若い少女であっても、現実を手に入れることがこれほど大きな努力を必要とする長い戦いであることを知ると、私たちがこうして現実を普通に生きていること自体が、実は奇跡的なことなのではないかと思えてしまう。

 精神科医とデボラの母親の間で次のような会話が交わされる。
 「…以前に知っていた患者さんで、ありとあらゆる恐ろしい方法で自分をいじめていた人があります。なぜそんなことをするのか、と聞きましたら、『世間がする前に、やるんだ』と言うのです。そこで『世間が本当にやるかどうか待ってみたらどう?』とききますと、『でも結局はそうなるんだ。だから、まず自分からすれば、その時には少なくとも私は自分の自己破壊については主人なのだ』と言うのです。」
 「その方は……よくなられましたか?」
 「よくなられましたよ。でもあとでナチスにつかまってダハウにおくりこまれ、そこで亡くなりました。おくさま、私がわざわざこの話を申しあげるのは、あなたがどれほど努力されても、最愛のお嬢さんを世間から保護しきることはできない、ということを、おわかりいただきたいからです。…(略)」
……(略)……
 「愛だけでは足りませんのね。…(略)…私たちはデボラを愛していたのですが……それでも愛だけでは……この……病気を……防ぐことはできなかったのですね……」

 デボラが必要としていたもの、そして学ばなければならなかったのは、おそらく、自分自身で現実の困難に立ち向かう力や方法を養うことであったのだと思う。

 次の引用は、デボラと精神科医の会話。
 「たやすいなどと言ったことがあったかしら?あなたがご自分で望まない限り、だれもあなたをよくすることはできないし、そのつもりもありませんよ。あなたが力と忍耐の限りを尽くして戦うのなら、ごいっしょに何とかできると思うけれど」
 「もし私がしなかったら?」
 「そうね、精神病院はいくらでもあって、毎日せっせと新築してるわ」
 「では、戦うとしたら、何をめざして?」
 「うまい話はないって、去年もおととしも申し上げたでしょう?自分にむかって挑戦するため、自分の誤りを認め、その罰を引きうけるため、愛と健康を自分自身で定義づけるため、人生を生き始めることのできるりっぱな強い自分を築くためよ」

 デボラには誤りを認め現実に向き合うことのできる強い母親がいて、デボラ自身の努力を手助けしてくれる経験豊富な医者がいた。しかし、現実の社会には、再生の機会に恵まれないまま闇に落ちていった少年少女が数多くいるだろう。


 この本は始め図書館で借りて読んだので、手元に置いておきたいと思ったら、絶版になっていた。それでアマゾンで中古本を購入した。こういう良書が絶版だとは不思議なことだ。

 余談。精神病院の中の様子を読んでいて、『カッコーの巣の上で』という映画を思い出した。『カッコーの巣の上で』は原作が1962年の小説で、『デボラの世界』の原著は1964年の発行だった。この時代、アメリカでこういうテーマが流行ったのだろうか。


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(追記)

 私が書いた感想より、ずっと上手くこの本を紹介してあるブログの記事を見つけたので、下記、リンクを貼って紹介します。本全体の魅力がきちんと伝わってくる感想です。特に、デボラの狂気の世界が「美しい」世界であったということや、精神病院の中の他の人々の魅力もこの小説の要だということを、私は書いていませんでした。

  ブログ: 『月夜に散歩』

 
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by koharu65 | 2011-08-08 22:16 | 本・小説・映画
 10日程前、図書館で貸し出しの受付に並ぼうとしたところ、返却本の棚の中に『東電OL殺人事件』というタイトルが目に入った。一時、世間を大きく騒がせた事件として記憶に残っている。なんの気なしに借りてみた。
 1997年、もう今から14年も前の事件だ。
 東京電力東京本社に勤務する当時39歳の女性が、渋谷区丸山町にあるアパートの1階空き室で何者かに殺害された。遺体は殺害されてから11日後に発見された。この事件が大きな話題となったのは、殺された女性が大企業に勤めるキャリアウーマンにもかかわらず、夜な夜な売春婦として街頭に立って客を引いていたという事実が明るみになったからだ。
 この本を書いたノンフィクション作家の佐野真一氏は、そこまで堕ちていった彼女の内面の闇を突き止めたいという思いで取材を進める。その過程で彼女の家庭環境や父親との関係、職場での立場など、わかったことはいろいろあるのだが、結局それらはすべて外面的な事象、彼女の外郭ににすぎないという気がする。生きている人間の心の内でさえ簡単にうかがい知ることできないのだから、ましてや死んでしまった彼女の心の奥底を探ることなど始めから不可能な試みだったに違いない。
 ただ、最後の方で、彼女の大学の同級生のこんな言葉が紹介されていたのが印象に残った。 
「事件を知ったときにはとても信じられませんでした。私なりにいろいろ理由を考えてみましたが、いまだによくわかりません。彼女はすごく潔癖症だったので、精神のバランスを欠いてしまったのではないかというのが、私なりの結論でした。
 でも、女性ならば誰でも、自分をどこまでもおとしめてみたい、という衝動をもっているんじゃないかとも思うんです」
 佐野氏はこの言葉にたじろぐ。この言葉を発したのは、商社マンの夫と幼い子どもとともに、優雅でリッチな生活を営む幸福そうな主婦だったからだ。しかし、私は同じ女性として、この彼女の言葉にうなづいた。理屈ではなく、体でわかるような気がした。


 数日前、有罪となった被告人の再審請求により新たな鑑定結果が出たというニュースが流れ、直前にこの事件に関する本を読み終えたという偶然に驚いた。
 筆者は被害者の女性を足跡をたどると同時に、当時容疑者として逮捕されたネパール人のこともそれ以上の分量を割いて追っていた。筆者は始めから被疑者が無実であることを感じていたようだった。その視点に沿ってこの本を読むと、警察は先入観に囚われた見込み捜査を行い、客観的事実を積み重ねていくなら容疑者は無実であることが明白であるかのように思われた。
 ところが新たな鑑定結果によって再び注目を集めたこの事件の経緯を目や耳にした妹がこういうことを言う。
「このネパール人って、もともと被害者の客だったんでしょう?
 (遺体が発見された部屋の)隣のアパートに住んでたんだって?一部屋に何人も。」
 妹のその口調には、疑ってしかるべし、という警察の見解と一致しているかのようなニュアンスが感じられた。私は佐野氏の取材の経緯を読んで、確実に違うじゃないか、警察ってひどい、犯人に仕立て上げている、と憤っていたので、妹のこの見方には驚かされ、いったいどちらの見方が正しいのかわからなくなってしまった。
 
 奇しくもこの7月、2008年にアメリカで当時2歳の娘を殺害したとされた母親に無罪評決が下された。世間ではほとんど有罪だと思われていた事件だが、充分な証拠がなかったらしい。

 もし、東電OL殺害事件が陪審員制度によって裁かれていたら、どういう結果になっただろうと、ふと思った。



 *こちらもぜひ参考に:
北京老学生さんのブログ
『佐野眞一著【東電OL殺人事件】警察の見込み捜査と作者の癖のある描写が印象に残る 前編』
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by koharu65 | 2011-07-24 21:33 | 本・小説・映画