過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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テレビと携帯電話

 長年愛用したテレビと携帯電話が相続き壊れた。

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 テレビは1985年製のソニー、14型トリニトロンテレビで、買った当初から今までずっと画質が変わらずクリアで美しかった。それが数ヶ月前突然、スイッチを引っ張った途端、ぷつんという音がして、二度と映らなくなった。少しずつ機能が衰えてなんだかおかしいと言う予兆があれば覚悟もできるというのに、前日まで元気に動いていたものが、ぱたっと動かなくなったショックは大きい。
 画質の美しさとえんじ色でシンプルな外観がとても気に入っていた。近所の電気屋に聞いてみたが、20年以上前の製品はまず部品が手に入らないので、修理は難しいだろうとのこと。あきらめるしかない。
 それで、新しいテレビを買おうと、量販店に出かけた。電器製品にはもともとあまり関心がないし、古いものが壊れない限り買い換えない性質なので、電器製品の売場を訪れるのも久しぶりだ。
 ひと回りして驚いた。ブラウン管のものがひとつもない。薄い液晶テレビしかないのである。時代はいつの間に移り変わったのだろうと、まるで浦島太郎のように呆然とした。
 展示されている液晶画面のテレビの画質はどれも私の小さなソニーのブラウン管テレビよりずっと劣っているように見えた。私のブラウン管テレビは小さいながらもどっしりと落ち着いていて画像や色味に深みと奥行きがあった。ちかちかとまたたく液晶画面は薄っぺらで軽く見える。もちろん、私が長年使用してきたテレビに対する愛着が、記憶の中の私のテレビの美点を増幅してるにすぎないということはわかっているけれど、それでも液晶テレビを買う気にはならなかった。
 壊れたテレビは、気の済むまで、インテリアとして部屋に飾っておくことにした。

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 さて、携帯も古いものであった。いつ買ったのか、はっきりとは覚えていないのだけれど、おそらく6、7年前だと思う。本体には「J-Phone」と刻まれていて、途中でVodafoneに変わり、Vodafoneのシールが貼ってある。今はソフトバンクだ。
 カメラもついていないし、メールもしないし、ほとんど自分からは掛けないので、契約プランもJ-フォン当時の最低プランでずっとやってきた。何度も床や地面に落としたことがあるにも関わらず、丈夫で壊れなかった。けれど、最近になってとうとう、2つのボタンが、何度かぎゅうっと押してやっと画面が切り替わるという事態になり、不便を感じるようになった。おそらくその10日程前、水の中に落としたのが原因だろうと思われる。すぐに引き上げてドライヤーで乾かしたら正常に動いたので、さすが、私の携帯、すばらしい、と感心していたのだが、やはり無理だったらしい。水に落とさなかったら、まだ現役で働いてくれてたかもしれないと思うと、気の毒な事をしたと思う。
 それで、携帯ショップへ出かけた。いろいろやりとりがあって、結局最新機種を購入することになった。カメラもついてるし、テレビも見れる。それに音楽も聞ける。テレビの購入をやめたのでそれで補える、という考えもあったし、iPodが欲しいな、と思ってたりしたので、それらを兼用するつもりで買った。けれど、相変わらずメールはしないし、携帯サイトも利用しないし、電話もこちらからは掛けないので、もしかしたら、豚に真珠だったかもしれない。
 古い携帯は、アラーム機能が使えるので、目覚まし時計として枕元に置くことにした。
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by koharu65 | 2008-02-27 00:00 | 雑感

取り残された悲しみ


取り残された悲しみが
ひたひたと押し寄せる

誓う言葉の虚しさと
誓った心の真実の狭間で

すがることも
あきらめることも
できず
白痴の如く立ち止まる

二つの体は ひとつに為らず
一つの心は ふたつに裂きがたく

生まれながらの孤独に
今更のように足踏みする

取り残された悲しみが
ジェルのように皮膚を覆い
やがて体温と混じり合い
温もりを発する日まで

取り残された悲しみの
冷たさが
胸に滲みる

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by koharu65 | 2008-02-25 00:00 |

生の目的

 小阪修平の『はじめて読む現代思想』(芸文社)によると、ニーチェは、「生の目的は何かと問うて、生の目的は生だというのは無意味だ」と言っているそうだ。「なぜなら、その言い方はトートロジー(同義反復)にすぎないから」。

 太宰治の『ヴィヨンの妻』で、妻は「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」と言い、夫は「こわいんだ。こわいんだよ、僕は。こわい!たすけてくれ!」と生の不安を叫ぶ。
 女は生の内側で生を肯定して生き、男は生の外側に生の根拠を求めようとするのだろうか。

では、生の目的は何か。ここに当時の進化論の影響をみる人もいるのですが、ニーチェはより大きく、強くなること、だと言いました。つまり、生の中心をなすのは「力への意思」だと言うわけです。(『はじめて読む現代思想Ⅰ』より)

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by koharu65 | 2008-02-18 00:00 | 雑感

哲学と宗教の違い

 小阪修平の『はじめて読む現代思想』(芸文社)という本に、哲学と宗教の違いが次のように書かれている。 
 …哲学というのは、もともと「○○とは何か」という問いではじまった思考のシステムのことです。「○○とは何か」というのを「なぜか」と言い換えてもいいんですが、「あるとは何か」(存在の意味ということですね)、「自分とは何か」とか、かんたんに答えられない問いを必然的にだしていきます。もっとちがう言葉で言えば、物事の根拠までもんだいとしていくのが哲学です。…
 「○○とは何か」という問い、たとえば「自分とは何か」とか、あるいは「われわれはどこから来て、そしてどこにいて、これからどこに行くのか」とか、そういう問いを哲学と宗教は共通してもっています。
 哲学と宗教のちがいがどこにあるかというと、…一言で言うと、宗教というのは一番の核心に啓示があるんです。啓示というのは、あるとき、神様か何か知りませんが、そういうものがぼくに働きかけるとか、あるときぼくが悟って世界の真理を見てしまうとかね。ちなみに、世界の真理を分かった人のことを仏様と言います。分かったということが、説明するより先に存在するわけです。そういうのを、誰でもが使える言葉で探求していこうというのが哲学であると言えます。

 先日、ぼた餅の話を書いたが、私が棚から落ちるのを待っているぼた餅とは、あるいはこの啓示のことかもしれないと、ふと思った。
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by koharu65 | 2008-02-07 00:00 | 雑感

ぼた餅とお地蔵様

 生来が怠け者で楽天家なので、じっと座って棚からぼた餅が落ちてくるのを待っている。ぼた餅など落ちてこないとわかっているのに、それでも動かない。ずっと上を向いていたら首が痛くなった。体の節々もぎしぎししてきたので、このままではお地蔵様になってしまうと、ようやく伸びをしてみた。
 部屋の外では知らぬ間にずいぶん年月が経っていることだろう。錆びついたドアを開けて足を踏み出せば、たちまち白髪の老女になってしまうかもしれない。
 それより、お地蔵様になれば、誰かがぼた餅を供えてくれるだろうか。
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by koharu65 | 2008-02-03 00:00 | 雑感