過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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争いのもと

 チベット人が何かしら民族としての危機感を抱いているとして、それが果たして統治上の直接的な抑圧によるものなのだろうかと、疑問に思う。
 2005年に青蔵鉄路(青海チベット鉄道)が開通し、チベットを訪れる観光客が飛躍的に増えた。交通手段の発達とともに、人的及び物資的な交流が盛んになり、経済が活発化する。こうなると商売上手な漢族の天下になることは想像がつくが、チベット人の市民も多かれ少なかれその経済活動に組み込まれていく。
 そして徐々に生活様式が変化する。精神的な生活に時間や心を割くより、物質的な生活に行動が捕らわれる方向に、シフトしていく。
 僧侶の存在というのは仏教に帰依し依存する人々の信仰心に支えられている。信者が信者としてのみ生きるのではなく、市民として活動するようになると、その変化に呼応して僧侶が自らの存在意義への信頼に以前ほど確信が持てなくなり、その不安感が、押し寄せる新しい変化の波をもたらす為政者に対する反発を生む、と考えられはしないだろうか。抑圧よりも、人々に対する宗教的拘束力が弱まっていくことが、宗教に存在の根拠を求める人々にとって脅威となっているのではないかと思うのだ。

 ダライ・ラマは独立ではなく高度な自治を求めてるのだと言う。けれど、宗教的指導者である彼がチベットに戻って政治的にも地域を統べることを求めるのなら、中国政府からすれば独立も自治も同じことで、チベット高原という戦略的に重要な地域を中央政府が直接掌握しにくくなる不安定要素を受け入れるはずがない。
 領土問題に関しては中国政府は一貫して、どんなことがあっても決して譲らないという原則を持っている。それはおそらく歴史の教訓であろう。
 私には“全チベット人”が中国政府の統治下で抑圧され苦しんでいるとは思えない。中国政府は、領土の安定と安全を脅かす要素に対しては容赦なく対応するということなのだと思う。
 対してダライ・ラマは人権という御旗を立て世界の世論を味方につけることで、チベットにおける自らの主導権を取り戻そうとしている。彼は偉大な宗教家であるだけでなく、老獪な政治家でもあるように見える。
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by koharu65 | 2008-03-25 00:00 | 中国・中国語

議論について

 議論を交わす、ということは、必ずしも議論によってより正しい内容を導くという目的のために行われるわけではないということに、今更ながら気付く。
 議論は時に、権力を得るために、如何により大きな声でより多くの主張をするかの戦いとなる。
 ある立場の者の論理と別の立場の者の論理が、議論によって融合するということは、ほとんどあり得ないのではないか。なぜなら、ある者の主張は、その者の文化・歴史・環境など様々な背景によって(本人にとっては)合理的かつ必然的に構築されている。相手にとってもそれは同じことで、各々が各々の広大な背景を背負って、各々に必然と思われる主張をしているのだから、勝負の行方はしばしば、ある特定の議題の事柄に関する是非を超えて、主張する者たちの立場と立場の戦いという様相を示す。
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by koharu65 | 2008-03-23 00:00 | 雑感

昼と夜の不安


泣きたくなる日は
どう過ごしたらいいのだろう
叫びたくなる夜は
どうこらえたらいいのだろう

何も感じずに
昼を越せたらいいのに
何も思わずに
夜を迎えられればいいのに

実体のない不安が伸びていく

四方に伸びた不安を
するすると 手繰り寄せて
てきぱきと 折りたたみ
くるりと 縛って
ぱたんと 引き出しに仕舞えたら

ああ、どんなにか よいだろうね
どんなにか よいだろう

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by koharu65 | 2008-03-20 00:00 |

楊逸『ワンちゃん』

 さて、『ワンちゃん』だが、選評に日本語が稚拙だとか、こなれていない、という評があったが、私はむしろその硬くきちんとした文章が物語として整った体裁と相俟って、とても読みやすいと思った。
 『乳と卵』とは対照的である。『乳と卵』では、語る主体や、立ち向かうべき現実そのものがあやふやで曖昧な感じがするのに対して、『ワンちゃん』では、あくまでも動かしようのない現実があって、それと真正面から対峙する「私」がいる。現実というものが疑いもなく外界にあって、それに対して「私」がいて、「私」がより幸福に生きることを目的として現実に立ち向かっていく構図がはっきりとした輪郭でかたどられている。

 『ワンちゃん』では、ワンちゃんの「王愛勤」という元々の名前と彼女が人一倍の働き者であることを結び付けて説明していたり、単行本同時収録の『老処女』でも主人公の名前がその運命や性格と結び付けられていて、そこから、言葉と、言葉によって名づけられたものとが一致するという世界観が見て取れる。
 ならば、姑だけが呼ぶ<ワンちゃん>という名称をタイトルに用いた意味は何だろう、とふと思った。中国での「王愛勤」は働きづめに働いても報われることがなかった。日本での「木村紅」は心の通うことがない形だけの夫の姓と、幸せな花嫁の象徴である紅(赤色)を組み合わせた名前である。そして「ワンちゃん」という名前は唯一、彼女が心を通い合わせた姑が呼ぶ愛称であり、しかも漢字ですらない。カタカナとひらがなの組み合わせである。表意文字である漢字という文字そのものに貼り付いている意味を剥ぎ取った「ワンちゃん」という名前は、彼女にとって素の自分に一番近い名前だったのではないだろうか。だから姑の死は、彼女にとって一番自然で健やかな名前を失うことを意味していたのだろう。
 などと考えると、なかなかおもしろく読めるのだが、それにしては姑との心の交流の描写が詳しく書き込まれていないので、二人の間に存在したであろう情や絆にいまひとつ説得力がないし、土村との関係もどこか付け足しのような気がしてならない。
 主人公が「王愛勤」として苦労した様子や、「木村紅」という国際結婚仲介人として活躍する場面は筆が活き活きとしていて面白いのだが、土村との微妙な恋愛感情や姑への親近感や情を描写する場面となると、型どおりになぞっているだけのようで、強く引き込まれるものがない。
 もしかしたら、結局、「王愛勤」と名乗ろうが「木村紅」と名乗ろうが、ワンちゃんと呼ばれようが、彼女は変わらない、変われないのかもしれない。そこに彼女の育ってきた文化、社会、歴史の重さを私は強く感じた。
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by koharu65 | 2008-03-16 00:00 | 本・小説・映画
 巻子の言葉が気になる。

 <緑子、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。>

 巻子は<ほんまのこと>はない、とは言わない。<ないこともあるねんで>と言う。<ほんまのこと>がある、という前提で問いかけてくる緑子に対して、巻子は、それはないこともあると言う、けれど、まったくないとも言わない。曖昧さが留保されている。
 それがおそらく、現実を受け入れて生きていく大人としての知恵であって、生きる意味を激しく問い詰めてくる緑子の心も、生きていくことの不明瞭さを不明瞭なまま受け入れていく覚悟が必要だったということなのかもしれない。

 そう考えると、この小説全体を覆う饒舌さ、だらだらと切れ目なく続く文体も、腑に落ちるような気がする。物事は言葉によって分別される。けれどはっきりと分別されない心を人は持っている。その曖昧な心を曖昧なまま誠実に忠実に表現しようとすれば、それは饒舌にならざる得ないのだろう。それでも言葉を尽くせば尽くすほど、<言葉が足りない>という事態に陥るのだ。
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by koharu65 | 2008-03-15 00:00 | 本・小説・映画

芥川賞受賞作『乳と卵』

 川上未映子の『乳と卵』を読んだ。
ある夏、大阪に住む姉とその娘が、東京にいる<わたし>の家に泊まりに来てから帰るまでの三日間のお話である。
 姉の巻子は39歳、10年前に離婚して女手ひとつで、娘の緑子を育ててきた。緑子は現在小学6年生である。巻子が上京した目的は豊胸手術のためで、いかに胸を膨らますかということが現在の一大事であって、そのことしか話さない。娘の緑子は母に対してもう半年も口をきかない。すべて筆談で通している。
 緑子は、もうすぐ来るであろう生理に対する嫌悪感=女としての身体に対する嫌悪感をひたすらノートに書き綴る。

 <こないだも学校で、移動んときに、誰かが、女に生まれてきたからにはいつか子どもは生みたい、みたいなことをゆってて、単にあそこから出血する、ってことが女になるってことになってて、それからなんか女として、みたいな話しになって、いのちを生む、とかそういうでっかい気持ちになれるのはなんでやろうか。そしてそれがほんまにいいことって自分で思うことなんかな。あたしはちがうような気がしてそれが厭な原因のような気がしてる。…(略)…あたしは勝手にお腹がへったり、勝手に生理になったりするようなこんな体があって、その中に閉じ込められてるって感じる。んで生まれてきたら最後、生きてご飯を食べ続けて、お金をかせいで生きていかなあかんことだけでもしんどいことです。お母さんを見てたら、毎日を働きまくっても毎日しんどく、なんで、と思ってまう、これいっこだけでもういっぱいやのに、その中からまた別の体を出すとか、そんなこと、想像も出来んし、そういうことがみんなほんまに素晴らしくてすてきなことって自分で考えてちゃんとそう思うのですかね。ひとりでこれについて考えたときにすごくブルーになるから、わたしにとってはいいことじゃないのはたしかで、それに、生理がくるってことは受精ができるってことでそれは妊娠ということで、それはこんなふうに、食べたり考えたりする人間がふえるってことで、そのことを思うとなんで、と絶望的な、おおげさな気分になってしまう、ぜったいに子どもなんか生まないとあたしは思う。>

 さて、引用が長くなった。句切れのないだらだらと続く文章なので、引用もなかなか途中で切ることができない。この自問自答の思索と、その思索を<ノートに記録する>という行為こそ、成長過程の緑子に必要不可欠な行為であったのだろう。ここで緑子が問うているのは、<私が生まれてきた意味><私が生きている意味>であり、また<私が命を生み出す性を持って生まれてきた意味>であって、緑子は大人や世間が教えてくれないその答えを一人で必死にみつけようとしているし、答えがみつからないのに体だけがいやおうなしに大人になっていくことへの不安を抱えている。娘が耐え切れない不安で一杯になっているのも知らず、母親は豊胸手術の資料集めに奔走する。
 けれど、緑子は決してそういう母親を否定しているわけではない。逆に、彼女には母の辛さ、苦しさが見えてしまって共感するからこそ、いろんな思いを母と共有できないことに対するもどかしさが彼女をいらだたせる。

 物語の最後の方でやっと、巻子がなぜそれほど豊胸手術にこだわるのか、その原因らしき事情が暗に語られる。
 病院に行くと言って出かけたまま帰らない巻子を心配して待ちわびる緑子とわたしの前に、巻子は酔っ払って現れる。その母に対して緑子はようやく<搾り出すような声>を発する。

 <お母さん、ほんまのことを、ほんまのことをゆうてや、>

 緑子は冷蔵庫から卵を出して、それを自分の頭に叩きつけ頭からぼたぼたと割れた卵の中身をたらし、泣きながら言う。

 <む、胸をおっきくして、お母さんは、何がいいの、痛い思いして、そんな思いして、いいことないやんか、ほんまは、なにがしたいの、>
 <それは、あたしを生んで胸がなくなってもうたなら、しゃあないでしょう、それをなんで、お母さんは痛い思いしてまでそれを、>
 <わたしはこわい、色んなことがわからへん、目がいたい、目がくるしい、目がずっとくるしいくるしい、目がいたいねんお母さん、厭、厭、おおきくなるんは厭なことや、でも、おおきならな、あかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったとちやうんか、みんな生まれてこやんかったら何もないねんから、何もないねんから、>

 女になる、ということが、機能的に子供を生むことができる、ということだけではないことに緑子は気付いてる。母はなぜ胸を膨らませたいのか?緑子はそれを知りたい。表面に現れている母の行動、行為を突き動かしている背後にある何か、母の内側にある見えてこない<ほんまのことを>知りたいのだ。
 痛い思いまでして女であろうとする母の欲望のありか、母を苦しめるその得体の知れないものはいったい何なのか、そのコントロールの効かない欲望に対して自分もこれから向かい合わなければならないことへの恐れ、緑子はその怯えを母に向かって直接吐き出すことによってやっと、母と子という関係から一歩踏み出して、新たな関係性を築く端緒を得たのかもしれない。
 娘が母に正面からぶつかって思いを吐き出し、母も娘の思いを受け止めやさしく背をさするというシーンが小説の中ではクライマックスとなって、二人の関係性が回復された安堵感とともに読んでいてカタルシスを感じる。始め読みにくかった文体もだんだんと引き込まれて途中から気にならなくなったし、読後感はとてもよかった。
 しかし、緑子の人間としての根源的な問いは、なんだか宙に浮いたままのようで、母との女としての連帯というそれで結論が出てしまったのだろうか、と物足りない思いも残る。

 ここで、ふと気付いたのだが、緑子の<ほんまのこと>が知りたいという根源的なものへの追求、真理への欲求が宙ぶらりんになってしまうこと、行き場を失っていることが、つまりは現代の問題なのではないか。ノートに綴られる緑子の思いは、確かに存在する、記録されるのに、それはただ緑子の内部に留まるだけで、その外側に向かって解放されない。それは、外に通じる言葉を持たないからだ。

 <ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん、ほいでこれをここで見ているわたしにも言葉が足りん>。

 泣きながら、玉子まみれになりながら、<ほんまのこと>が知りたいと訴える緑子に対して母は言う。

 <緑子、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。>

 果たして、<ほんまのこと>なんて本当はないのだろうか。
 言葉ではすれ違ったままの緑子と巻子なのに、玉子まみれになりながら、なんとなく気持ちが通じ合って、翌日二人は大阪へ帰る。なんとなく通じ合う、ということが足りない言葉を埋めるひとつの術ではあるのかもしれないけれど、私としてはやはり少し物足りない感じがしないでもない。

 この後、続けて、受賞は逃したが芥川賞の候補になった楊逸の『ワンちゃん』を読んだ。同じく女性で、しかし異なる文化を背景にした作家の作品であり、比べてみると興味深い。『ワンちゃん』の感想はまた後日あらためて。
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by koharu65 | 2008-03-10 00:00 | 本・小説・映画


偽りの器に
偽りの土
真実の種を植えたとて
真実の花が咲くものか

それでも人は
後生大事に鉢を抱え
せっせと水をやる

哀しきかな

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by koharu65 | 2008-03-06 00:00 |