過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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 この歌は怖いと思う。
 女が愛しているのは“あなた”なのだろうか?それとも“部屋”や“Yシャツ”なのだろうか?二者択一ではなくて、愛しているのはあなた自身と、あなたと私たちの部屋であり、あなたの着るYシャツであり、私たちの部屋とあなたの着るYシャツをせっせと磨く私自身なのだろうけれど。
 部屋や洋服という空間や物質の中で、“あなた”と“私”の境界線が溶け、すべてが均一の価値となり、運命共同体として一体化する世界、死さえも分かち合おうという一つの世界を男に要求する女の強い願望、私自身の内にも潜んでいるであろう飲み込み支配しようとする女の力が、私を慄かせる。
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by koharu65 | 2008-06-28 00:00 | 音楽

ある午後の日


雲が ふわり
木漏れ日が きらり
木の葉が はらり
蝶々が ひらり

よく晴れた午後の日に

さらさら 小川の音を聞きながら
昼寝をしよう
すやすやと

風が そより
水面が ゆらり
蜻蛉が くるり

(こんな素敵な午後には もしかして
あの子が戻ってくるかもしれないな)

足音 かさり
あの子が にっこり

くすくす 笑い声が遠ざかる

風が冷たくなってきた

夢から覚めよう
そろそろね

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by koharu65 | 2008-06-27 00:01 |

服が合わない(夢の話)

 時折、衣服に関する夢を見る。着ていく服がないとか、着ている服が合わないとか、裸同然でぼろぼろの服を纏っているとか。
 そういう夢を見た時期の現実の生活を照らし合わせてみると、自分の外見や対外的な評価などに問題を抱えていることに思い当たる。服とは、薄皮のように身の外側に纏って人に見せるもの。だから、人との関係の中で、自分が周囲の人間に見せたいと思う姿が、どうも上手く表現できないとき、こうありたい(こう見せたい)という自分と現実の自分との間に齟齬があるとき、服がないとか、合わない夢を見るのではないかと思う。
 こんな夢を見た。
 好きな人と一緒に出かけることになった。でも誘われたのが当日だったので、ちゃんとした服を選ぶ暇がなかった。私はもう車に乗っていて、自分の服がトレーニングウェアであることに気付く。デートするのにいくらなんでもこれはひどすぎる、と思って、私は気が気でない。車は目的地の駐車場に着くのだが、私はこんなひどい服装の私が、ちゃんとした格好の彼と並んで歩くのが厭で、ぐずぐずしている。他の服はないかと、車の中を探すが、あるのは同じようなウェアの上着が2、3枚。少しでもマシなものを、と思うけれど、どっちにしろ下が同じなのだから、上着だけ替えてもたいした違いはない。私があんまりぐずぐずしているので、彼がいらいらしている。ぐずぐずすればするほど、彼は怒るだろう。けれど私にはどうしようもない。いつまでも、駐車場から出ることはできないのである。
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by koharu65 | 2008-06-27 00:00 | 夢の話

マトリョーシカ

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 北海道のお土産にマトリョーシカを貰った。メイド・イン・ロシアである。表情がなんとも愛らしい。すましてお出かけといったふう。大変気に入った。

 梅とマトリョーシカ、梅雨時にうれしい贈り物が続いた。
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by koharu65 | 2008-06-24 00:00 | 雑感

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 梅干にする梅が届いた。
 熟した実の甘い桃のような香りが部屋いっぱいに広がる。褐色の甕の中で、ところどころ赤く色づいた黄色の実に、塩の白さがまぶしい。
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by koharu65 | 2008-06-23 00:00 | 雑感

恋よ 恋


「ふたりの心がぴたりとひとつに?
万に一つの奇跡よね
それとも思い違いの幻想かしら」

期待せぬのがよろしいようで

恋よ 恋 

それでも恋は 異なもの味なもの

色は匂へど散りぬるを
いずれ散りゆく運命ならば

「鳴かぬ蛍も悪くないわ
真夏の夜に身を焦がしましょう」

恋よ 来い

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by koharu65 | 2008-06-19 00:00 |

志賀直哉の『山鳩』

 久しぶりに志賀直哉を読んだ。新潮文庫の『灰色の月・万暦赤絵』という短編集である。
 昔はこの作家に特に興味を持たなかったが、今読むと、とてもいい。後期の短編集ということもあって、筆致が穏やかだということもあるのかもしれないが、熟成されたふくよかな空気を感じた。現実を現実としてありのまま受け入れつつ、芯の部分は決して揺らがないというところがあって、読んでいて安心感がある。

 印象に残った話をひとつ、挙げておこう。長くなるけれど。
 『山鳩』より。

 “私”は、住んでいる熱海の山荘で、よく二羽一緒に飛んでいる山鳩を見かけていた。ある日、鳥撃ちの名人である友人(福田君)が遊びにやって来て、ひとりで近所に撃ちに出かけ、まだ体温の残っている山鳩とヒヨドリとホオジロを持って戻ってきた。

 (以下、引用)…
 翌日、私は山鳩が一羽だけで飛んでいるのを見た。山鳩の飛び方は妙に気忙しい感じがする。一羽が先に飛び、四五間あとから、他の一羽が遅れじと一生懸命に随いて行く。毎日、それを見ていたのだが、今はそれが一羽になり、一羽で日に何度となく、私の眼の前を往ったり来たりした。私はその時、一緒に食った小綬鶏、鵯等に就いては何とも思わなかったし、福田君が他所で撃った山鳩に対しても、そういう気持ちは起こらなかったが、幾月かの間、見て、馴染みになった夫婦の山鳩が、一羽で飛んでいるのを見ると余りいい気持ちがしなかった。撃ったのは自分ではないが、食ったのは自分だということも気が咎めた。
 …(中略)…
 最近、又猟期に入った。近所の知合いでS氏という人は血統書きのついた高価なイングリッシュ・セッターを二頭も飼っていて、猟服姿でよくこの辺を徘徊している。然し、この人の場合は猟犬は警戒していなければ危ないが、鳥は安心していてもいい腕前だそうだ。可恐いのは地下足袋の福田蘭童で、四五日前に来た時、
「今年はこの辺はやめて貰おうかな」というと、
「そんなに気になるなら、残った方も片づけて上げましょうか?」
と笑いながら言う。彼は鳥にとっては、そういう恐ろしい男である。
 (引用終わり)

 何か、物でも生き物でも、それが自分にとって他とは異なるものとして存在すること、自分と特別な関係にあるということ、それが愛情の土台となるのだと思った。
 鳥を鳥としか見ず、かつ、銃の腕も確かな福田くんこそ、鳥にとって「恐ろしい男」なのである。

 唐突だが、先日書いた映画『猟人日記』の話に戻ると、主人公のジョーは、もしかしたら、自分が見捨てて(殺した)恋人との特別な関係を薄めるために、多くの女性と関係したのではないかと思った。キャシーという自分にとって特別な関係であった恋人を、自分と一時、肉体的に繋がるだけの多くの女性のうちの一人として、その存在の意味を薄めることによって、罪の意識も薄めようとしたのではないか。そうすると、周囲の人間との関わり、世界との関わりは限りなく薄められていく。人を、個性を持ったその人そのものではなく、どれも均等、均質に扱うということは、世界を平板に、奥行きのないものとして捉えることであり、その結果、この世界に自分を繋ぎとめるものが失われてしまう。『猟人日記』に漂う不気味な感じは、おそらくここに起因するのだと思う。手鏡に刻まれた「自分を見て/私を想って/愛をこめて.C」というキャシーの言葉は、とうとうジョーを捕らえておくことができなかった。手鏡を捨て去るのと同時にジョーは人間として大切な何かを捨て去ってしまったのだ。話の結末としては、彼は法的、社会的な制裁をまんまと逃れたことになっている。ところが、観客が彼の行方を思うとき、決して幸福な未来を想像しない。手鏡を捨てるというその場面は、彼の人生を暗黒の方向へ押しやる何か決定的な結末だという感じを受けて、観客は、その未来を危惧するのである。

 先日、秋葉原で無差別殺傷事件があり、多くの人が犠牲になった。犯人は、誰かに止めて欲しかった、と供述し、ワイドショーではそれは言い訳だと非難していた。私は、彼が「とめて欲しかった」と言うのは、単に彼の行動を予測し諌める言葉のことを指すのではないように思う。彼は“非人間的な”世界に傾倒していく自分を、“人間的な”世界に繋ぎ留めてくれる何かを欲していたのではないだろうか。だとすると、彼が“彼女”を欲しがっていたというのがとてもよくわかる。自分にとって特別で大切な誰かが存在している、そしてその誰かにとって自分も又唯一無二の特別な存在であるという信念、それが私たちが“人間的”であるということの根幹を支えているのだと思う。
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by koharu65 | 2008-06-19 00:00 | 本・小説・映画

くちなし

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密やかな芳香に誘われ
見やれば
緑の褥に抱かれた
真白な柔肌が目に染みる

間近に身を寄せ
深く息をすれば
甘く濃密な香りに
体が溶けていく

君が香に
我を忘れる

現を忘れる

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by koharu65 | 2008-06-15 00:00 |
 映画『猟人日記』(監督:デヴィッド・マッケンジー/2003年/英・仏)を見た。
 概要はこちらをご参考に。↓
 http://www.elephant-picture.jp/ryojin-nikki/intro.html
 
 1950年代のイギリスの運河のゆるやなかな流れがとても美しい。その美しい情景の中の人間模様に静かだが何か不気味なものが隠されているような気がして、最後まで目が離せなかった。
 解説や批評では、男が人妻を誘惑すると書いてあることが多かったが、私はそうだろうか?と思った。現実でもそうだが、男女間の誘惑というのはどちらから、というのがわかりにくい。微妙なサインのやり取りで、阿吽の呼吸が生まれるものである。
 原題は『YOUNG ADAM』。アダムとイヴの物語を引き合いに出すならば、神の言いつけに背いてアダムに知恵の樹の実を食べるよう唆すのはイヴである。しかし、その後、神に、知恵の樹の実を食べたのか、と詰問されたとき、アダムは、食べたのはイヴだけだと答える。これがアダムが最初に犯した罪である。
 猟人日記の人妻たちは、自分が罪を犯してることにおそらく自覚的である。彼女たちは、やり切れない生活に淀んでいる澱のようなものから逃れるために、罪を罪と自覚しながらそれぞれがそれぞれの事情によって、主人公の男、ジョーと関係を持つ。ところがジョーはどうだろうか。彼は罪に無自覚のまま、いや、それどころか過去のある出来事に対する罪の意識から逃れるために、女たちと関係する。

 映画を見た翌日、私はふと、芥川龍之介の『羅生門』を思い出した。主人に暇を出された下人が、行くあてもないまま羅生門の下で雨宿りをする。下人はこれからの生活をどうにかするためには、「手段を選んでいるいとまはない」と思う。けれど「盗人になるより外に仕方がないという事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいた」。下人はともかくも夜を明かそうと門の上の楼へ上る。そこで、死人の髪を抜きとる老婆に出会う。当時、羅生門には引き取り手のない死人が多く捨てられていた。
 …
下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って合理的には、それを善悪の何れに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くという事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。

下人は太刀を抜いて老婆に突きつけ、何をしていたのだ、と問いただす。老婆は、死人の髪を抜いて鬘にするのだと言う。自分が今髪を抜いていたこの女とて、生前には蛇を干魚だと偽って売っていた。それも生きるために仕方がなくしたことである。

されば、今又、わしのしていた事も悪いこととは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、餓死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方ないことを、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ
 それを聞いた下人の心にある勇気が生まれる。下人は、老婆の襟首をつかみながら、
「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ。」
と言い、すばやく老婆を着物を剥ぎ取り、蹴倒し、急な梯子を駆け下りていった。
 下人は職を失ったというものの、まだ若く力もあり、餓死の切実な危険に向き合ったこともない。それに対し老婆はぎりぎりの情況で生き抜かなければならない生活をおそらくは短くない間、続けてきている。また、老婆が奪ったのは死人からであり、下人は生きている老婆を足蹴にし奪った。
 彼は、自分が理解できない行動をしている老婆を見た途端、その不気味さと己の皮相な正義感から太刀を抜き、さて、その事情、老婆の言い草を聞くやいなや、今度は豹変しこれ幸いと老婆の論理から盗みを正当化するための勇気を得たのである。

 ジョーもまたこの下人と同じである。ジョーと、ジョーと関係を持つ女たちとは、同じ行為をしていても、その意味が全く異なっていることに、彼は気づかない。気づかないまま、女の生活を、そして最終的には、ある善良な家族の生活をも破壊する。読者や観客には見える老婆や女たちのリアルで真摯な生活や人生が、下人やジョーには見えていないのである。
 猟人日記は最後、ジョーが、ずっと持ち続けていた昔の恋人キャシーから貰った鏡を河に投げ捨て、どこかへ姿をくらます場面で終わる。鏡には、「自分を見て/私を想って/愛をこめて.C」と刻まれていた。
 それは羅生門の下人が、「唯、黒洞々(こくとうとう)たる夜」の闇に消えていったのと似ている。
 夜の底へ消えていった「下人の行方は、誰も知らない」。
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by koharu65 | 2008-06-13 00:00 | 本・小説・映画


鴉が妙な声で鳴いていた
ほわあ ほわあと 鳴いていた

子が母を呼ぶ声か
母が子を想う声か

いっそ母子の情など断ち切ってしまえば
鴉も妙な声で鳴かずに済むものを

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by koharu65 | 2008-06-08 00:01 |