過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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空を飛べない(夢の話)

 長い夢を見た。あんまり長くて前半はうろ覚えなので、後半印象的な部分だけ記す。
 私は仲間の女性2人とともに、現実の世界とは別の仮想世界にトリップしている。仲間の女性は1人は同年輩、もう一人は少女だ。仮想世界でのストーリーはひとまず休止してそろそろ元の現実の世界に戻るときなのだが、私はなんとなくぐずぐずしている。
 私たちのいる場所は二階建ての大きな一軒家で、海に面した丘の上に建っている。リビングから外に出ると長い急斜面の砂浜が波打ち際へと続いている。私はひとり斜面へと出て地面を蹴って砂浜を上から下へ飛ぼうとする。体は浮き上がるが、とても重い。うす曇の空を何本もの電線が交差して横切っている。その電線を縫うようにしてたくさんのカモメが飛んでいる。たとえ体が重くなくて高く飛べるとしても、これでは電線とカモメが邪魔をしてつかえてしまうだろう。空を飛べるはずだ、飛ぼう、と当たり前の気持ちで地面を蹴った私にのしかかったのは、自分自身の体の重さと空を横切る電線とカモメだった。
 ついに足が地面についてしまう。砂が深い。
 斜面の上から仲間を含む数人が心配して私を見ていた。家の主人が大声で私に告げる。
「そこの森で迷子になった者がいる。死んだんだよ!」
彼の指差す方向を見ると、いつの間にかすぐそばに真っ黒な森が迫っていた。私はおそろしくなって戻ろうとするが、足が砂に捕らわれてなかなか進めない。
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by koharu65 | 2009-02-26 20:25 | 夢の話
誠実なおつき合いができる方のみ If You Are the One
公式サイト(中国語)http://feichengwurao.sina.com.cn/
2008年/中国/127分
監督:フォン・シャオガン
出演:グー・ヨウ、スー・チー、ファン・ウェイ、アレックス・フォン、ビビアン・スー

◆グー・ヨウ(『活きる』)、スー・チー(『百年恋歌』)主演、中国・日本を舞台にした魂に響くラブコメ。天才的発明で一夜にして大金持ちになった男が結婚相手を探す旅に出る。ついに誠実で美しい女性に心奪われるが…。『女帝[エンペラー]』(06年)、『戦場のレクイエム』(07年)のフォン・シャオガン監督最新作。今年のお正月に中国で公開され、大ヒットを記録した話題作。

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 『非誠勿擾』、直訳すれば「誠に非ずんば煩わすこと勿れ」。
 結婚相手募集などに使われる決まり文句だそうで、「誠実なおつき合いができる方のみ」とか「冷やかしお断り」といった意味になる。「おつき合い」だけでなく不動産や賃貸関連の個人広告などでも使われるそうなので、「冷やかしお断り」の方がより簡潔でぴったりな訳かもしれない。
 日本では3月に大阪アジアン映画祭2009で上映される。一般公開はまだ決まっていないので具体的な内容を書くことは差し控えるが、なかなか面白い映画であった。
 上の紹介に「ラブコメ」とあるように、ちょっと現実離れしていて笑えて、しかもワンシーンワンシーンの構図がびしっと決まっていて美しかった。
 半ば過ぎからは舞台が北海道に移り、景色の美しさはもちろん、今まで中国で語られてきたステレオタイプの日本の描写とは全く異なるものになっていて、日本の良さが前面に押し出されている。知り合いの中国人は「日本のイメージがぐんとアップして、まるで日本を宣伝してるみたいだよ。」と言っていた。
 かねがね私は、社会構造や人間関係が複雑で家族や社会的慣習の重みが強くのしかかる一方、物質主義・功利主義に走る昨今の中国と比べて、日本の特徴は自然とともに生き自然な感情の発露を重んじるところにあると思っていた。そして、その対比――社会的な生き方と、自分と相手の感情を互いに尊重するあり方との対比が、この作品の骨組みを成していると受け止めた。ただし、映画の中ではこれが中国人と日本人という対比で表れてくるのではなく、主体は一貫して中国的世界にあるのだけれど、中国と日本と舞台を変えることによって、その対比を象徴的に表現している。
 そういえば、これは楊逸の『金魚生活』のテーマとも似通っているなと思った。
 ただ後半、北海道でのロードムービーになると、どこかで見たことのある場面やストーリー展開を型通りに並べたかのようなところもあった。また、スタイリッシュに出来すぎていて、「誠実」も経済力があってこそかと思わせるどこか「作り物」のような感じがしないでもなかった。
 とはいえ、シリアスな要素と明るくコミカルな表現がバランスよく配合されていて娯楽映画としてよくできているということ、いままでにない視点から日本を描いているということ、この2点において好ましく観賞した作品であった。
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by koharu65 | 2009-02-22 13:54 | 本・小説・映画

身の丈


縮んで、縮んで、縮んで、縮んで
ありんこのように小さくなって
指でぷちんとつぶされる

ふくらんで、ふくらんで、ふくらんで、ふくらんで
蛙の父さんのように腹がふくれて
ぱちんとはじける

ちょうど身の丈におさめるのも
容易くはなし

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by koharu65 | 2009-02-21 16:29 |

ざわつく心


 人と接すると心がざわつく。
 人里離れた山奥で晴耕雨読の生活をすれば、心はどんなに落ち着くだろう。
 けれど、どんなにか寂しいだろう。
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by koharu65 | 2009-02-20 09:48 | 雑感

愛し子

 
白く柔らかな肌に真赤なほっぺ
綿毛のようなふわふわの
薄茶の髪が陽に透ける
丸いお鼻がちょこんと上を向いて
ぷっくらさくらんぼの唇が
キスを誘う

腕の中の愛し子よ

まつげが頬をくすぐる
ビー玉のようなその瞳も
今はまぶたの裏だから
まっすぐな視線をまぶしがらずに
ゆっくり眺めていられる

ぐっすりおやすみ 愛し子よ

目覚めればたちまち
私の腕をすりぬけて
ぴょんぴょん駆け出していくだろうから
腕をふりふり振り向きもせず
あわてて飛んでいくだろうから

どうかしばらくそのままで
おやすみなさい 愛し子よ

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by koharu65 | 2009-02-16 22:31 |

自由と権利

 先日、日本国憲法を読んでいて、以下の文面が印象に残った。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。(日本国憲法第12条)
 なるほど、自由と権利は天から降ってくるものではないのだ、不断の努力によって保持しなければならないものなのだ。
 私たち日本人はそれを知っているのだろうか。
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by koharu65 | 2009-02-15 14:09 | 雑感

寒さこらえて

 淡谷のり子は演歌が嫌いだったそうで、「着てはもらえぬセーターとわかっているなら、何も編むことないじゃない」と言ったという。耐えて、忍んで、こらえて、という情念より、もっと明るく楽しく人生を謳歌するほうがいいということなのだと思う。演歌が流行らない時代というのは、すなわち耐え忍ぶという精神性や美意識が流行らない時代だということなのだろう。
 昨年末の紅白で、一番伝統的な紅白らしい紅白の光景だと思ったのが、ジェロのお母さんが映し出された場面だった。涙ぐむお母さんの姿に私も思わずうるうるしてしまった。着てもらえないセーターを編む必要はないけれど、いつか実を結ぶ努力や忍耐は誰の心をも打つ。演歌の真髄もそこにあるのだろうから、精神性にどっぷりはまって酔うのではなく、現代に合うエッセンスをほどよい形で取り出したら、演歌も復興するんじゃなかろうか。
 そういえば、紅白の大トリは氷川きよしの「きよしのズンドコ節」で、すごくよかった。軽くて明るくノリのいいメロディーに演歌調の歌詞が乗せてあって、テレビの前でこぶしを軽く振りあげながら「きよし!」と叫んで終わった昨年の大晦日であった。

 余談だが、上の文章を書きながら「ズンドコ節」はもしかして演歌とは言わない?と思って調べたら、元は「海軍小唄」というものだった。小唄というと、お座敷小唄を思い浮かべる。演歌にある情念のようなものが日本の伝統かと思っていたら、なんだ、もともと日本にはお座敷小唄みたいにもっと軽くて楽しくて風刺やお色気などバラエティに富んだ歌もあるじゃないか、演歌は単に一時代の流行にすぎなかったのか?と認識を新たにした。
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by koharu65 | 2009-02-13 10:04 | 音楽

偶像

 道を歩いていたら突然名前を呼ばれた。
 小学校の同級生であった。よく一緒に遊んだ覚えがある。
 私は小学生の頃、優等生で、その名誉を失わないためにしばしば姑息な手段を弄した。虚勢を張ったり、演技したり、嘘をついたり、騙したり。出会った同級生は昔から素直でまっすぐで、自分のことを「俺は馬鹿だから」と言いつつ相変わらず屈託のない笑顔を浮かべ、懐かしさいっぱいというふうに優等生の私を見つめる。
 不景気で会社は大変だが俺はなかなか忙しい、明日から出張でタイに行くのだと、そう言った。
 彼の視線はまぶしくて恥ずかしくなるほどだったが、同時にとても心地よかった。
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by koharu65 | 2009-02-10 21:12 | 雑感

優しさ


優しさにふれると抱かれるようで
心がふわりと溶けていく

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by koharu65 | 2009-02-09 10:12 |
 自分のために生きるのか、誰かのために生きるのか、二者択一ではなくておそらくその両方なのだろう。自分が生きてることが誰かを生かすことになり、誰かの生によって自分の生も支えられている、そんな有機的な関係が円満に作用している状態が理想的だろうと思う。そういう実感を得ることはなかなか難しい。

 最近、森山直太朗の歌の歌詞が話題になった。

生きていることが辛いなら
いっそ小さく死ねばいい
恋人と親は悲しむが
三日と経てば元通り

 三日と経てば元通り、というのは嘘だと思う。多くの場合、亡くなった人の影は残された者のそばに一生残る。ただ、実際はそうだとしても、問題は、自分がいなくなっても三日も経てば世の中は元通りだと、そう感じる本人の感覚である。
 ネイティブ・アメリカンは自分たちの存在が星や太陽の運行にかかわっていると信じているそうである。
 私たち(私?)はなぜ、しばしば自分の存在が世間から切り離されたもの、存在してもしなくてもどちらでもかまわないものと考えてしまうのだろう。もし自分の存在がこの世にしっかりと結び付けられていると固く信じるのなら、「生」は私の手の内に握られる。

 こういう言い方はまずいのかもしれないが、もしかしたら大切なのは個々の命ではないのかもしれない。
キリスト教では私たちの命は神に与えられたものだから大切なのであって、ばらばらの命は神を支点とし神によって結び付けられている。仏教で大切なのは生きとし生けるものの総体であって、私たち人間の命はそのうちの一つとして大切にされる。
 大切にされるべきは全体に結び付けられている命であって、もしばらばらな個々の命であるならば、それがひとつ無くなろうと生を放棄しようとも、個々の命の勝手ではないか。

 ああ、なんだか危うい思考に陥りつつある。頭を休めなければ…
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by koharu65 | 2009-02-07 12:58 | 雑感