過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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人形作り

 昨年夏の終わりに、カップブラ付きの下着を買ったらブラの大きさが合わず(或いは胸の大きさが足りず)具合が悪くてそのままタンスにしまってあった。先日、それをタンスから引っ張り出して、いつまでも只しまっておくのもなんだけど処分するのももったいないなあと、手にとって眺めていたら、突然思い出した。中学生のとき、米山京子さんという人形作家の本を買って初めて人形を作ったことを。人形の肌にする生地に“肌色の綿ジャージー”という指定があったのだが、そんなような生地が店で見つからなかった。いろいろ考えて結局、使い古しの白の綿メリヤスの下着を紅茶でベージュ色に染めたという思い出がある。
 目の前にある生地をためつすがめつ眺めるに、厚さといい伸び具合といい色といい人形の肌にぴったりだ。
 というわけで、中学生のとき以来の人形作りに取り組んだ。
 ミモザの精なので、「ミモザさん」と名づける。(なんて単純な!)

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by koharu65 | 2009-05-29 21:47 | 人形作り
 夢の話。
 高層ビルの上の方の階にいる。私はそこからエレベーターで降りていくが、一気に降りるのではなく、一階一階止まってフロアに出てから再びエレベーターに乗り込んでいく。エレベーターの出入り口から見通しのいいフロアを見渡すと、ビジネススーツを着た男女が盛んに行き来していた。
 私がひとつの階に降りるごとにその階で何かトラブルが起きる。トラブルの内容が何なのかはっきりとはわからないが、トラブルの原因がどうも私にあると疑われているような気がして、追われる不安で、逃げるようにしてふたたびエレベーターに乗り込む。そんなことを一階一階繰り返しながら、とうとう一番下の階に出た。
 ビルの出入り口のガラスのドアの前で検問が行われている。この検問をどう突破しようと思っていたら目の前を5,6歳の女の子が歩いていた。私は、そうだ、この子と一緒だと装えばいいと思い、女の子の横に並び、連れのようにして歩調を合わせる。案の定、見咎められることなく無事ドアを抜けることができた。
 ドアを出ると、目の前は外ではなく広い吹き抜けの空間になっていて、天井はガラスのドームで、私のいる場所から更に下の空間に飛行機が止まっていた。
 大統領機だ、と思うと同時に、私は女の子と手を繋いで走り出し、吹き抜けのテラスから下の飛行機に向かって飛び込んだ。
 その瞬間大爆発が起こり、何もかもが吹き飛んで目の前が真っ白になった。
 意識が上へ昇っていく。細胞がばらばらになって徐々に大気中に拡散していくようだ。肉体を実感できない。意識だけが上へ上へと向かっていく。
 私の右手に柔らかく小さな手が握られているのに気づく。肉体の存在を見失った中で、女の子の手の感触だけが生々しくしっかりと残っていて、私の右手もまたそのことによって形を成していた。
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by koharu65 | 2009-05-28 13:51 | 夢の話

定額給付金の効果のほど

 定額給付金が入るから、という気分で買った品物が3点、八千円と七千円と四千円。とっくに予算オーバーだ。まだ現金が手元に届いてもいないというのに…。あ、ドリームジャンボも三千円分買った。2億当たれば大黒字!
 日本中で、私のようにノセられた人がどれだけいるかな?
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by koharu65 | 2009-05-27 14:41 | 雑感

昼と夜


夜の帳が下り始め
大地は徐々に冷めていった
惜しむように抱きかかえていた陽光が
薄暮の空に戻りゆく
すっかり熱を奪われた私は
語る相手を失い 身を横たえる

朝がきっとふたたび訪れることを
私は知っているはずだが
それでも
夜の冷たさを嘆かずにはいられない
昼の暖かさを想わずにはいられない

明日の温もりは今日の温もりと同じだろうか
ひょっとして
今日という日の温もりは二度と戻らぬかもしれない

冷めた大地は朝を待つ
次の夜には再び失うであろう熱を
いっときその懐に抱くために
雌鶏が卵を抱くように?
卵が孵るほど熱が続くとでも思っているのだろうか?

くりかえす昼と夜の運命の下

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by koharu65 | 2009-05-26 13:03 |

睡蓮

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 これはトノサマガエルが現れる三日前にご近所から貰った睡蓮。
 ちょうどよいカエルの休憩処となった。

 
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by koharu65 | 2009-05-23 16:06 | 花の写真
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 昨年9月、連れをなくしたトノサマガエルの話を書いた。
 ところが今朝、トノサマガエルが二匹そろって庭の池に現れたではないか!(写真に写っているのは一匹だけだけど。)
 庭で初めて二匹のトノサマガエルを見たのが昨年5月の半ば。今年もぴったり5月の半ばに現れた。
 家族で、果たして去年と同じトノサマガエルかどうか議論になった。去年より体が小さいぞ、でもおたまじゃくしも見ないのにまさか今年産まれたカエルじゃないでしょう、きっと冬眠明けで痩せたんだよ。
 してみると、9月に一匹だけ見当たらなくなったのは、猫にやられたのではない、一足先に冬眠に入っていたのに違いない。(隣のメリーよ、濡れ衣を着せてごめん。)
 母が池の周りの植木鉢をそそくさと片付けた。カエルのおしっこは植木によくないそうだ。

 昨年5月のトノサマガエル→http://koharu65.exblog.jp/9966459/
 9月のトノサマガエル→http://koharu65.exblog.jp/9759786/
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by koharu65 | 2009-05-23 11:27 | 鳥、蛙、魚、犬、猫

誠実も嘘つきも

憎しみが根を下ろしているというのに、どうして涼しい顔をしているのだろう。
口先だけの優しさなのか心からの優しさなのか、知ることができないならば、誠実も嘘つきも結局は同じことなのだ。
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by koharu65 | 2009-05-22 11:10 | 雑感

裁判員制度について

 裁判員制度が話題になり始めてからずっとその必要性について考えている。
 制度のしくみや実際の手続きについての記事は数多く見かけるのに、なぜこの制度が必要なのか、これによって世の中がどう変わるのか、未だに納得のいく説明を聞いたり見たりすることがない。
 身近な人に聞いたならば、こう言った。
 「そりゃ、より民主的な世の中を作るためだろ。」
 この答えは手掛かりになりそうな気がする。

 新聞などでよく「自分に人を裁けるのか」或いは「自分は人を裁きたくない」という意見を目にする。
 私たちが暮らしているこの社会では、私たちは自分で犯罪者を裁かずに、専門の機関が犯罪者を裁いている。そしてそれによって社会の治安が維持されている。
 裁判所の裁判官たちが行っている人を裁くという行為は、私たちの生活と全く無関係に存在しているわけではなく、“彼ら”が公平に人を裁くことによって“社会”の治安が維持され、ひいては“私”の安全が守られる。私は確かに自分で直接犯罪者を裁いてはいないけれど、その代わりにその行為を裁判所という公的機関に委託していると言えるのではないだろうか。
 だとすると、意識していないけれど、実は私たちは間接的に不断に人を裁き続けているのではないか。
 裁判員制度の導入が、そのことを国民に意識させるのを目的としているのならば、大いに意義があることだと思うのだが、この考えが合ってるかどうか定かではない。

 知り合いと裁判員制度について話をしていたら、彼は
 「僕は通知が来ても絶対に応じないつもりだ。」
と言った。
 「どうせ罰則規定はないんだしさ。断わっても平気だよ。」
 「えー、私は、おもしろそうだから絶対行くけどな。」
 「だって、怖いと思うよ。まだ始まったばかりで、制度にしっかりした規定がないんだよ。何の保証もない。大丈夫だ、安全だって口で言うだけで、犯罪者に面と向かって関わるようなことして、実際に何かあったらどうする?」

 そうか。私は彼の言うような“怖さ”を全く認識していなかった。
 彼は犯罪者に面と向かって関わることの具体的な危険性を“怖い”と言ったわけだが、それ以外に、責任を負うことの重さに対する“怖さ”もあるだろう。
 そう思うと、実は、「人を裁けるのか」「裁きたくない」と言う人々の方が、「おもしろそうだから」などと思った私よりずっときちんと事の重大性を認識していたのだ。

 個人が直接的に人を裁くのに関わることと、裁判官が人を裁くことの違いは何だろうと考えてみる。
 裁判官は組織の代理人であり、権力を背負っている。彼らは、公平であり中立であるはずだという信頼の元に専門職として公的機関に属し職務を遂行するのだし、具体的な危険性からは権力を以って保護されている。
 やっぱり裁判官に任せたほうが安心、安全なんじゃないか、と思ってしまう。けれどそれは、強い組織(或いは権力)と弱い個人という図式が多くの人に共通の認識としてあるからじゃないだろうか。個人にそんな責任の重いことできない、プロじゃないからそんな能力はない、恨まれたら怖い、守ってもらえない等々。
 組織としての強さと個人としての弱さ、こういう固定観念があるとしたら、裁判員になって重い責任に面すること、怖さに立ち向かって正しいことを行おうと努力すること、公平さや冷静な判断力を求められることは、個人を強くするためのひとつの訓練としてとてもいい場となるのではないだろうかと思う。訓練の場なんて言い方をすると、裁かれる側からすると、とんでもないと思われるかもしれないけど、実は、一般の市民の集まりが下す判断はプロの一人が下す判断よりも時として感覚的に正しいこともあるかもしれない。権力が下す決定ではなく、個人の集まりによる合意が下す決定がある種の力を持つという制度の存在は、社会的に個人の力や地位を強める方向を促進するのではないか。
 つまり、裁判員制度というのは、参加する個人にとっても、社会全般にとっても、個人の持つ力を強化することに繋がる。権力に対する個人の地位が相対的に上がり、より民主的な社会の形成に寄与するという可能性を持った制度であると言えるかもしれない。

 そんなふうに自分だけの想像をめぐらせていたら、たまたまNHKのクローズアップ現代で裁判員制度を取り上げていたのを見た。
 アメリカの陪審員制度の例では、市民が陪審員の役目を果たすことは“地域社会への奉仕”と位置づけられているのだそうだ。うーん、それは一足飛びの先の話のような…。アメリカという、権力と同じくらい個人の力が重んじられる社会だからこそ、そういう論理が当然と受け止められるのではないかという気がする。
 私が知りたいのはその前の段階、なぜ裁判員制度が“地域社会への奉仕”になり得るのか、そしてなぜ我々は奉仕する必要があるのか、ということなんだけどな。そんな理屈は知る必要がないんだろうか。

[訂正]
 後から知ったのですが、裁判員に選任されてから正当な理由なく裁判を欠席すると、10万円以下の過料の制裁を受ける場合があります。上記、罰則規定がないと書いたのは誤りでした。訂正します。
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by koharu65 | 2009-05-21 10:05 | 雑感
 病院嫌いなので、滅多に病院に行かない。けれど最近頻繁に胃が痛むのでさすがに不安になって、とうとう病院に行った。近所に新しくできた病院が女医さんだと聞いたので、出かける気になったのだ。私の病院嫌いは医者嫌いであって、男性の医師に居丈高に応対されるとすぐに怖気づいてしまう。
 やさしく話のしやすい女医さんだった。じゃあ、ちょっと服を上げてみてください、と言われても、躊躇せずに、どうぞどうぞ喜んで、と思いっきり服を捲り上げることができる。お腹に触れる手が柔らかくて気持ちいい。
 医者なんだから、仕事なんだから、性別を意識するほうがおかしいだろうか。でも、他人に肌を触れられるということに対してどうしても本能的に警戒心が働いてしまう。理屈ではなく。

 さて、肝心の胃痛だが、結局、神経性のものでしょう、と言われた。それで、ほっとした。それを聞いただけでもう八割がた治ったような気になったので、確かに神経性のものに違いない。薬を飲み始めて3日目だが胃壁が日に日に丈夫になっているような気がしている。胃痛はその痛みがストレスとなって更に胃に負担がかかるので悪循環に陥ると、以前どこかで読んだことがある。だから、今胃が癒されつつあるのだというイメージを描くことが重要かもしれない。ピンク色の胃壁がお腹の中でぽにょぽにょと元気よく働いているイメージを描こう。
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by koharu65 | 2009-05-17 21:32 | 雑感
 アイザック・アシモフはロボットと人間の脳にかかわる未来を描き、それから半世紀以上経った今、アシモフの空想世界は実現を前提とした研究対象となっている。
 彼はまた、何百年何千年も先の人類の未来の発展の方向を描いた銀河帝国興亡史(ファウンデーション・シリーズ)という壮大な未来歴史小説を残しているが、実際に人類の未来は果たしてアシモフの想像力を模倣していくのだろうか。それを確かめる術はない。けれど、個人の生命の区切りを遥かに越えた先の時を描くアシモフの作品群を読んでいると、現代の常識ではいくら荒唐無稽な設定だとしても、“さもありなん”と思わせるリアルさを感じるから不思議である。

 『ロボットの時代』(ハヤカワ文庫)という短編集の中に、「みんな集まれ」という作品があり、その中にこんな一節がある。


 彼は立ちあがり、壁の世界地図を見つめた。それは、うすい色で縁どられた二つの地域に分けられている。地図の左側のでこぼこした線にとりかこまれた地域はうす緑色で縁どられている。右側の、ややせまい、同じようにでこぼこな線でかこまれた地域は、あせたようなピンクで縁どられている。これがつまり、われわれであり、彼らなのであった。
 一世紀のあいだ、この地図にたいした変化はなかった。八十年ほど前に、われわれが台湾を失い、東ドイツを得たことが、もっとも最近の変化である。
 もうひとつ、色の上で変化があったけれどもこれは重要な意味をもっている。二世代前には、彼らの領土は、鮮血のような赤い色だった。われわれの領土は、汚れのない純白だった。それがいまでは、中間色になっている。…

 初出は1957年。東西の冷戦の始まりをだいたい戦後の1950年頃とすると、小説内の時代はそれから一世紀を経た2050年頃、そして、その八十年前、1970年前後に台湾が“彼ら”のものに、東ドイツが“われわれ”のものになったと設定されている。
 むろんアシモフは政治評論家でも預言者でもなく、ただ当時の世界を二分した政治的状況をモチーフにして自由に想像し、お話を作ったにすぎないし、未来はぴったりその通りにはなっていない。しかし私が興味深く思ったのは、アシモフのこの設定の背後にある洞察で、それは、人工的に分断された民族はいずれ一つになるということと、イデオロギーの対立は時と共にやがてその対立軸を失っていくということである。

 彼は生化学の専門家なのだが、ここに挙げた例のように、社会学や人間学、歴史学にも深く通じてるかのようだ。
 私は特にSF小説のマニアというわけではなくて、アイザック・アシモフの小説が好きなのだけれども、それは彼の作品が人間や人間の社会に対する深い洞察力に裏打ちされた“科学空想小説”であるからだと思う。
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by koharu65 | 2009-05-16 16:11 | 本・小説・映画