過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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忘れな草さん2体


c0173113_22155815.jpgc0173113_22161135.jpgお手本に従って。

c0173113_22162613.jpgc0173113_22164059.jpg髪の素材と色を変えてみました。

 着ないままタンスにしまってあった下着を捨てるのがもったいなくて人形の肌布にしようと始めた人形づくりだが、とうとうその布地を使いきってしまった。それで米山京子さんのドール・ドールというお店に注文して人形用の肌布を送ってもらった。やっぱり物が違う。ピンクがかった明るい透き通るような肌色で、これならきっと前よりずっと上手に作れるだろうと思った。
 しかし使ってみると、布の扱いが逆に難しくなったし、相変わらずお手本どおりには仕上がらない。
 教本を隅々まで読んで、ある記述に気づいた。
 本には、米山京子さんの娘さんのマリさんが留学先のイギリスから送ってきた作品が何点か掲載されていた。写真の横に、材料がなかなか手に入らなくて苦労した、人形の肌布にはストッキングを使った、と書かれてあった。それらの人形は、京子さんの作品とはまた趣が異なりヨーロッパの香りがするおしゃれで素敵なお人形さんたちだった。そうか、結局、弘法筆を選ばずということなんだ…。
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by koharu65 | 2009-06-30 22:19 | 人形作り
 漢詩の表現する世界、その奥深さに心惹かれ、時々ちゃんと勉強してみようと昔漢文の授業で買わされた参考書などを本棚から引っ張り出してページを繰ってみるのだけれど、最後まで読みとおしたことがない。
 『李白~詩と心象』松浦友久著(社会思想社・教養文庫)。一年程前、たまたま通りがかった古本屋で、店頭の100円コーナーに並べられていたものを買った。しかし第一章を読み終えたところでやっぱり挫折してしまった。
 白文のままでは難しすぎて読むことができない。かといって読み下し文の日本語としてのぎこちなさにどうしても違和感を感じる。解説で意味を理解しても、味気なくて詩を味わったことにはならない。
 
 結局読みとおせなかったこの本を、当時衝動的に買ったのはなぜだろうと、再び開いてみてわかった。冒頭の「序にかえて」に『静夜思』という詩が掲げられていて、その日本語訳がすばらしかったのだ。読み下し文でも解説でもない、日本語に訳された詩である。
 抜粋する。上から白文(原文)、読み下し文(訓読)、松浦氏の日本語訳。日本語訳が付してあったのはこの冒頭の詩だけであった。


『静夜思』 李白

牀前看月光  
疑是地上霜  
挙頭望山月  
低頭思故郷  

牀前(しょうぜん) 月光を看(み)る
疑(うたご)うらくは是(こ)れ地上の霜かと
頭(こうべ)を挙げて 山月を望み
頭(こうべ)を低(た)れて 故郷を思う

枕辺(まくらべ)に月かげあふれ
きらめくは地上の霜か
仰(あお)ぎみる山の端(は)の月
俯(ふ)し思う遠き日のうた

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by koharu65 | 2009-06-27 19:52 | 本・小説・映画

梅酢

 先日塩漬けした梅の実から琥珀色の液体が滲み出てきた。これを“梅酢”という。梅の実に含まれるクエン酸でこれ自体そのままで酸味がある。
 昨日、紫蘇の葉を塩でよく揉んでアクを出し、梅酢のあがった甕の中に加えた。あとはじっくり寝かせて土用を待つ。土用のお天気のいい日に3日間干して、梅干になる。
 紫蘇の葉を塩で揉むとき出る汁は青みの強い紫色だが、そこに梅酢が加わると、鮮やかな赤紫色に変化する。それがまた美しい。梅の実と塩と紫蘇の葉が作用しあって調和して美しさとおいしさを生み出す。見事なものだ。
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 昨年7月5日に同じ写真を撮っている。昨年は漬ける時期が少し遅かった。
 梅干の作り方→http://www.kohseis.co.jp/club/ume/umeboshi.htm
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by koharu65 | 2009-06-25 15:04 | 雑感

らせん階段(夢の話)

 夢を見た。
 高層ビルの中、私はガラスで仕切られたエリアへ入っていく。入り口で白衣を着た女性に書類を渡される。職員を募集しているのだという。書類は履歴書付の募集要項であった。しかし募集しているのは男性らしい。どうして女性の私に書類を渡したのだろう?心当たりがあったら渡してくれということなのかしらん。
 ガラスの入り口を入ると、ベニヤ板で囲まれた小部屋がいくつも並んでいた。そこは精神を病んだ人たちのためのクリニックで、それぞれの小部屋には患者がひとりずつ入れられていた。いくつかの小部屋のドアは普通のドアではなく、映画館の切符売り場のようなガラスの小窓があった。そういう部屋は、来客を直接部屋の中に招きいれることに困難を感じるタイプの人たちの部屋で、小窓を通して外部とコミュニケーションを取るのだ。
 さて、私がある部屋の傍らに立っていると、ドアの隙間から若い女性が顔を出して白衣を着た男性職員と何か話をした。すると女性の顔がいつの間にやら犬の顔に変わり、その犬の顔をした女性に職員がむりやりキスをした。私は不穏な空気を感じて周りを見やる。壁際に並んだパイプ椅子に他の職員が7,8人座っていたが、ただにやにやと笑っているばかりである。私ははたと気がついた。ここではクリニックの名を借りて、不埒なことが行われているのだ。
 そこで私は職員が去って女性が部屋から出てくるのを待った。出てきた女性は背が高く八頭身の美人で、モデルのような美しい立ち姿をしていた。私は彼女の手を引いて急いで走り出した。職員が追ってくる。
 フロアの真ん中に下へ降りる階段を見つけた。階段は吹き抜けの空中に螺旋を描きながら下りている。下は霧がかかったように白くなって底が見えない。手すりはない。ただ足を降ろす踏み板の部分だけが一定の間隔で螺旋状に続いている。怖いとはちっとも思わなかった。走ってきたそのままの勢いで空中の踏み板を2、3段とんとんと降りた。私が手を引いた女性は少し躊躇したようだったが、私はかまわず手を引っ張って降りた。
 ところが4段目あたりで、私は足を踏み外した。踏み出した先に当然あるはずの確かな手ごたえがないことにびっくりした足は宙を掻いて落ちた。
 そのがくっと足が落ちる感触で私は目を覚ました。

 前回記した夢と同じモチーフだ。近代的な高層ビルの中、トラブルを起こして追われる私、女性(前回は小さな女の子)の手を引いて走る、吹き抜けの空間に飛び込む。
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by koharu65 | 2009-06-23 10:47 | 夢の話
 先日、お年寄りに席を譲って当然という顔をされたら怒りを感じるという話題に違和感を覚える、と書いた。
 それで周りの人に聞いてみてわかったことがある。老人に席を譲るのは、老人が体力的に劣っているから、弱者であるから労わるためである、という考え方が一般的らしい。私はそうではないと思っていた。いや、もちろん立っているのが大変だろうという気持ちが全くないわけではない。でもそれよりもむしろ、席を譲ることは年長者に対する敬意の表れという意味をより多く含んでいるのだと思っていた。どうやらこれは古い考え方らしい。
 「老人に席を譲る」というマナーが持っている本来的な意義は「年長者への敬意」である(あった)と思う。その古い考え方に従えば、老人は親切を施されて席を譲られるのではなく、当然受けるべき敬意を受けるだけなのだ。とすると、席を譲られて当然のような顔をして座った老人は、自分の信じる古い慣習に従っただけであったということではないだろうか。
 譲った方の若者はどうだろう。そもそも電車の中で自分と老人は対等に座る権利があるが、自分はその権利を老人に自主的に譲ったのだから感謝されてしかるべきだと思ってる。

 逆に、席を譲られるとムッとしたり、余計なお世話だと言わんばかりに断わるお年寄りもいるらしい。だから思春期の女の子などは、せっかく勇気を出して席を譲ったのに断わられて恥ずかしい思いをした、お年寄りは席を譲られたら素直に座って欲しいと考えたりする。(以前、新聞でそういう投書を見た。)
 どうもこれは自分が老人だとみなされることに対して遺憾に思う心境から発生する現象と思われる。自分はまだまだ元気なんだ、労わってもらう必要はないという自負がある。施されたくもない親切を施されて感謝の言葉を口にしなければならないとしたら座らない方がましではないか。

 いっそのこと、若者も老人も対等なのだから席を譲ることはないと割り切ってしまえば、事は簡単なのだ。弱者だから席を譲るというならば、妊婦とか松葉杖の人とか立っているのも大儀そうなよぼよぼの老人とか、見るからに弱者と思われる相手にだけ席を譲ればいい。なぜ「お年寄り」という年齢による一律のくくりを設けるのか。
 冒頭の話を取り上げていたテレビ番組のゲストがいみじくも言っていたように、おそらく今の日本は「年寄りというだけで威張っていてはいけない」時代である。それなのに「年寄りには席を譲らなければならない」という古いマナーは形骸化して残っている。そこでマナーを支える心のあり方として、老人は当然弱者なので親切を施さなければならず、けれど立場的には対等なので、親切とその代価である感謝の気持ちとを対等にやりとりしなければならない。(老人を一律に弱者とみなす考え方はそれ自体、老人を対等に扱うどころか一段低く見ているようにも思える。)

 一方で「老人には席を譲らなければならない」と年齢による特別扱いの枠を設けながら、一方では「年寄りというだけで威張ってはいけない」という平等主義、能力主義が浸透している。席を譲るという行為に見られる心理のややこしさは、この両者の価値基準の矛盾に起因しているのではないかと思った。
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by koharu65 | 2009-06-22 15:21 | 雑感
 3体目のミモザさんと、それから、桃子ちゃんと名づけた人形を作りました。

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 桃子ちゃんは型紙を教本どおりに、髪型と洋服はオリジナルです。天使のような子を作ろうと思ったのに、なんだか大人っぽくなってしまいました。目の傾き方ひとつで表情が違ってきてしまうのがおもしろい。
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by koharu65 | 2009-06-21 14:35 | 人形作り
 久しぶりにさだまさしを聞いた。6月10日発売のアルバム『美しい朝』。収録曲どれもこれもよかった。特に気に入ったのは『勧酒-さけをすすむ-』。かまやつひろしの『良き友よ』を思い出した。男の友情物語になぜか惹かれる。
 
 アルバムの中の一曲から、『私は犬になりたい¥490』を。コミカルな中に哀愁がただよい、豊かさと奇妙な貧しさがないまぜになった今を反映していると思った。ソフトバンクとのCMタイアップ曲。このyoutubeのものはシングルバージョンで伴奏はギターのみ、アルバムではホーンセクションやサックス、ドラムスなどが加えられている。




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by koharu65 | 2009-06-19 10:27 | 音楽

親切の代価

 先日、何の番組だったか、テレビで“電車などでお年寄りに席を譲ったとき、ありがとうの言葉もなく当然のような顔をされて座られるのに怒りを感じる”という話題を耳にして、ちょっと違和感を覚えた。

 席を譲られて当然のような顔をすることを批判するならば、席を譲って当然の如く感謝の意を要求するのもまた同じことじゃないかと思う。

 この怒りに共感するかどうかという電話投票では、共感するほうが圧倒的に多かった。(投票する人に若い人が多いということもあるのだろうけれど。)
 年寄りは電車の中で席を譲られて当然、という感覚は一般的でないんだということにちょっと驚く。それは当然に行われてしかるべき行為ではなく、ありがたく(文字どおり“有り難く”)思わなければいけない行為であるということなのか。

 実際には、私も席を譲ったらにこっと笑ってありがとうの一言があるとうれしい。感謝されないと張り合いがない。親切をしたらどうしても行為の代価を求めてしまう。けれどそれは私の自分勝手な感情の部分で、親切の代価を求めようとする身勝手な心をいさめる倫理ある社会がいいなと、そう思うのだけれども。

 スタジオのゲストたちの間でも、その怒りに同調する意見が優勢で、これは、席を譲るのが当然だというルールや倫理を社会に確立する必要性よりも、人と人との間の情やその場の感情的な心地良さを大事に思うゆえであろうかと考えた。

 そのゲストの一人が「年を取ってるだけで威張ってる奴がいる」と言っていた。そうか、今は年を取っているだけで尊敬される時代ではないのだ。すると、年を取るしか能のない私などはこの先一生尊敬されることはないのだろう。
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by koharu65 | 2009-06-16 14:23 | 雑感

多肉植物


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 庭の植木鉢の多肉植物の葉の縁に、小さなバラのような緑色の花がお行儀よく幾つも並んで咲いた。かわいい。
 花だと思うのだけれども、花なのだろうか?それとも芽だろうか。
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by koharu65 | 2009-06-15 13:49 | 花の写真

梅の実

 今年も梅を漬ける季節がやってきた。
 一晩水につけておいた青梅の水を切り、竹串でへたを取る。乾いたふきんで拭いて、焼酎を吹きかけ、塩をまぶして甕に入れる。重しをして、蓋をして、とりあえずここまで。後は梅エキスがあがってきて、紫蘇の葉が出回るまで、待つ。
 梅の実は美しい。青く硬く、ほんのりと黄みを帯びて、ところどころ赤が差している。甘い桃の匂いがする。水につけると表面の産毛に含まれた空気が、透明な真綿のように実をくるりと包み込み、きらきらと輝く。

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by koharu65 | 2009-06-14 21:03 | 雑感