過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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夫婦別姓

 時々訪れるブログがある。ものの見方や考え方が自分と似ていて、共感することが多い。たいていは、同感同感、と思いながら読む。ところが先日、そのブログで夫婦別姓が取り上げられていて、めずらしく記事の主旨に賛同できなかった。(記事はこちら。)それで、ああ、この感覚の違いはきっと男女の差なんだろうな、と思った。

 現行の法律では男性の姓を選ばなければならないとは規定されてない、女性の姓を選んでもいいのだから、決して男女不平等とは言えまい、それに女性が結婚して姓が変わったからといって仕事上特に支障をきたすとも思えない、逆にひとつの家族の中で姓が異なることによって不便が生じることの方が多い、子供の問題も然り。…と、だいたいこのような主旨であった。
 夫婦同姓で何の不便もないし男女不平等でもなんでもないじゃないか、と当然至極のように思う男性と、結婚の際に姓が変わることによって大なり小なり意識の変革をせまられる女性と、そこに性差による温度差を感じずにはいられない。

 そう思っていたら、27日の朝日新聞に興味深い投書を見つけた。38歳の主婦の投書である。全文を引用する。

 夫婦別姓を選ぶことができる民法改正案が来年の通常国会に提出されそうです。私は、なぜ今、法律を変えようとするのか分かりません。私は結婚、離婚、そして再婚をしました。今は三つ目の名字です。名字が変わる度に職場やプライベートで新しい姓を名乗り、皆さんに理解してもらってきました。
 ただ、心配は小学校高学年だった子どもたちでした。離婚後、前夫の名字のままにしました。再婚の時、親の都合で新たな名字を名乗らせるかどうかを悩みました。「新しい名字に抵抗はあるの」と尋ねると、「家族だから同じ名字がいい」でした。子どもたちにとっても、名字が家族の証しなんだな、と思い知らされました。
 夫婦別姓になれば、子どもの名字は結婚時に決めておくようです。でも、家族同姓という一世紀余続いた良き日本文化を崩してしまうことはありませんか。じっくり議論してもらいたいと思います。

 うーん、これを読んで、考え込んでしまった。
 まず、私から見ると、結婚、離婚、再婚によってその度に姓が変わる不便さを思うと、生まれながらの姓を一貫して持ち続けるほうがよっぱど楽で便利なんじゃないかと思う。しかし、投書の女性はその部分を、「皆さんに理解してもらってきた」と、名字の変化があっても社会がちゃんと受け入れてくれるから問題ないと言っている。
 子どもの問題にしても、合理的に(と私が思う)考えれば、親の都合によって名字がころころ変わるよりも、何があっても“僕の名前”は生まれたときからずっと同じだ、というほうが気分的に楽なんじゃないかと思う。
 先のブログの主は私の感覚とは逆に「家族同姓の方が便利」だと書いていた。投書の女性は「名字が家族の証し」だと書いている。
 ああ、そうか、ここで重要なのは、社会が家族を単位として構成されていることだと気づく。社会と有機的に結びついているのは、まずは“世帯”であり“家族”であって、個人ではない。
 だから、個人という立場からみれば、生涯ひとつの名前を持ち続けるほうが便利だけれど、社会(或いは世間)からすれば家族をひとつの単位として取り扱うとき「家族同姓」であったほうが便利である。“便利さ”という点を取り上げれば、誰にとっての便利かによって答えは違ってくる。
 女性の名字が変わることによって、周りの人間(世間)は、ああ、あの人は婚姻に関して何か変化があったのだな、と事情を「理解」し温かく受け止める。子どもも、父と母と自分とが同じ名字を持つことによってひとつの家族だと証明し得る社会的通念の下に育つ。私たちの生活している社会はそういうふうに出来上がっている社会であって、実際の社会のあり方に沿った制度が現行の家族同姓なのである。

 投書の女性は「家族同姓という一世紀余続いた良き日本文化」と書いているが、たった100年余り?この良き日本文化とはたった100年余りの歴史なのだろうか? もしかしたらここで女性が感じている「良き日本文化」とはたった100年どころの歴史ではないんじゃないだろうか?私は歴史には疎いのではっきりしたことは知らないけれど、家族同姓が制度として整えられてからは100年だとしても、家に属することがまず第一義であって、実際の生活のあらゆる局面が家ごとに括られてきた歴史はもっとずっと長いんじゃないかと思う。ただそういう実態を管理しやすいように、戸籍を作り夫婦同姓を制度的に定めた歴史がたった100年だということにすぎないのじゃないだろうか。
 だとすると、こういう考え方もできる。夫婦同姓が制度として定められる以前も、あらゆる生活の面で家が重要な単位とみなされ、家を基準に社会関係が築かれてきたとするならば、制度として制定してもしなくてもそういう実態が長年の伝統としてあったならば、多少制度を緩やかにしたとしても関係性が簡単に崩れることはないのではないか。
 いや、それとも崩れるのか?崩れそうだという不安があるから、制度で繋ぎとめようというのだろうか? 

 夫婦別姓を取り入れようと声をあげている人々も、実際に別姓にしたい、するつもりだと思う人たちのほうが少数派であることを知っている。少数派を排除しない、自由な選択肢を与えるというのが民主主義なので、例え夫婦同姓が社会に広く支持されているとしても、支持しない人たちにそれを強制すべきでない、という考え方に基づいて法案を推進しているらしい。

 法が改正されたとしても、それはこれからずっと少数派の選択肢に過ぎないのか。それとも制度を変えることによって、「良き日本文化」は徐々に崩れて(或いは変化して)いくのか。私には予測がつかない。もし崩れるとしても、それは夫婦別姓のせいではないような気もするのだが。

続く
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by koharu65 | 2009-10-31 21:41 | 雑感
 10月18日にこのブログで紹介した『大きな日本人は小さな世界に住む』と題されたドナルド・キーン氏のインタビュー記事について、引き続き考えてみた。

 「実は、個人主義について、本当は分からない。何か大きな危機があると、個人主義を忘れるのではないか、とも思います。…日本人は深いところで、それほど変化していないと思うのです。」

 ある種の“日本人の好み”は変わらない。
 「国際化が進んでも、日本人は自国意識が外国人に比べて強いと思います。日本人の好きな色を見ても車は白、黒、灰色が圧倒的です。原色は少ない。若い人が赤い服を着ても、髪の毛を緑に染めても、車の色の好みは変わらない。」

(「」内は引用)

 これはとても興味深いことだと思う。日本は異国のいろんな文化を学び取り入れてきた。新羅、百済、隋、唐、葡萄牙、和蘭、ドイツ、アメリカ…。でもそれらの核にある日本人としての自意識は天岩戸の時代から変わることなく綿綿と引き継がれてきたとしたら?取り入れた異国の文化は外皮であって、その内側の血と肉には辺境の素朴な農耕民族の力が脈々と生きているとしたら?むろんそれが悪いってわけじゃない。ただ、あたかも日本が、日本人がすっかり国際化されて外も内もなくなったかのような錯覚をするより、かたくなに強く自国意識を持ち続けている私たちを自覚したほうがいいんじゃないかと思ったりする。
 「何か大きな危機があると、個人主義を忘れるのではないか」という恐れを常に忘れずに脳裏に刻み付けておくほうがいいんじゃないだろうか。
 あるいは、ドナルド・キーン氏がインタビューの最後に「日本人、特にものを書く人には古典文学を読んで欲しい」と語ったように、外形だけの「和風」文化ではない、日本人としての自意識を支えている核の部分の力を増強したほうが逆に世界に通用する民族としての力、生命力を発揮できるんじゃないだろうか。
 外皮として身につけた新しい文化と、血であり肉である民族としての自意識と、両方が上手く平衡を保つことができれば安定と平和がもたらされるが、そうでなければバランスを失って不安定になった精神は表皮を簡単に脱ぎ捨てるかもしれないと、私は恐れる。

 「個人主義を忘れる」ということは必ずしも悪いことだけじゃないとは思うけれども。
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by koharu65 | 2009-10-28 20:58 | 雑感

花嫁

 
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 花婿も作ってあげたらよいと思うのですが、ズボンなので足を作るのが面倒で、とりあえず棚上げです。(花嫁のスカートの下はボール紙を三角錐に丸めたものです。これなら作るのが楽だし、簡単に立つのです。)
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by koharu65 | 2009-10-24 20:56 | 人形作り
 先日、車の中でラジオを聞いていたら、明日世界の終わりが来るとしたら何をする?と聞いていた。
 そういう歌を作った歌手の質問で、若い子のようだった。少し年上風のパーソナリティーは、何もしないだろうな、とちらっと言ったけれど、若い歌手が続けてすぐに、「みんな、やり残していることがあると思うんだよね。ニューヨーク行ったことないから行ってみたいとか…」と喋り始めたので、パーソナリティーの「何もしない」という言葉は宙に浮いてしまった。
 でも、私も「何もしない」派だ。「何もしない」「いつもどおりに過ごす」と答える人が多いんじゃないかと思う。
 明日世界が終わるというときに、「××をしたい」という欲望は掻きたてられるものだろうか? 家族と穏やかに日常の延長としてその時を迎えることを希望する人が多いように思うのだけれども。

 ちょうど車を運転中という事もあって、それとも、明日世界が終わるなら、このままどこまでも走り続けるのもいいな、と思った。

 その時がくるまでどこまでもどこまでもまっすぐ走り続ける。
 どこへ行くか、考えなくてもいい。
 家からどんどん遠ざかるけど、帰ることを考えなくてもいい。
 帰らなきゃ、って思う必要がない。
 景色だけがただ後ろへ後ろへと流れていく。

 世界の終わりを、そんなふうに迎えるのも悪くない。
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by koharu65 | 2009-10-22 20:59 | 雑感

帰って来たヨッパライ


『帰って来たヨッパライ』



『あの素晴らしい愛をもう一度』
http://www.youtube.com/watch?v=pK6L3QLyhYA&feature=related
『イムジン河』
http://www.youtube.com/watch?v=DFpL6fcspFU&NR=1
『悲しくてやりきれない』
http://www.youtube.com/watch?v=UrW9rcLK_C4&feature=related

 酒はうまいしねえちゃんはきれい、言うことなしの天国にい続けるためには、怖い神様を信じなければならない。けれどそれができないヨッパライは長い階段を踏み外して地上に落ち、やるせない現世を生きなおす。

 同じ花を見て美しいと言ったふたりの心、風が流れても変わらないと言った二人の心が、今はもう通わない。再び満たされることのない望みだと知っていても、「あの素晴らしい愛をもう一度」と求めずにはいられない。

 ふるさと、そこから来てそしていつか帰っていくべきところは、清い水がとうとうと流れ、水鳥が自由に飛びかう場所。そこは果たしてこの世のものなのだろうか。

 永遠の自由の地、完璧な愛に満たされた地、それは地上では叶わぬ夢の地で、偶然ただひたすらそこまで登り続けた信心の足りないヨッパライは資格を失って生き返った。生き返ったヨッパライは、それから時を経て酔いも醒め天国の門をくぐる資格を自分なりに得たのだと思ったのかもしれない。或いは、「悲しくて 悲しくて とてもやりきれない」生は、もう充分だと思ったのだろうか。

 生の無常に抵抗しきれない、それをすっと受け入れてしまう、とても日本的な情緒を抱えた一群の歌に、日本人としてせつなさと美しさを感じざるを得ない。
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by koharu65 | 2009-10-20 21:11 | 音楽
 9月30日の朝日新聞に日本文学者のドナルド・キーン氏のインタビューが掲載されていた。とても興味深い内容だったので要約しておこうと思う。
 見出しは『大きな日本人は小さな世界に住む それは国際化か』。

 氏は戦後すぐに東京を訪れている。この60年で日本は変わったか?という問いにキーン氏はこう答える。
 日本人は昔に比べると、大きくなった。それは日本文化と関係がある。終戦直後の天皇陛下とマッカーサーの写真が象徴的に示しているように、当時の日本人は外国人との付き合いが苦手であった。しかし戦後日本人は大きくなるにつれて自信がつき、外国人に対する苦手意識もなくなった。経済大国になって外国の文化的なものまで買いあさるような行き過ぎた“国際化”も進んだ。
 しかしかつての日本は外国のことを正しく知ろうとし、また喜んで学ぼうとしていた。それが日本の文化を非常に水準の高いものとしていた。

 また日本人の暮らしぶりも大きく変わり、“個人主義”の傾向が強くなっている。これも一種の“国際化”である。マンションの廊下で隣人とすれ違っても挨拶もしない。「大きくなった日本人は小さな世界に住むようになった。その世界は自分のもので、他人のものではない。」
 しかし一方でキーン氏はこう考える。
 「実は、個人主義について、本当は分からない。何か大きな危機があると、個人主義を忘れるのではないか、とも思います。…日本人は深いところで、それほど変化していないと思うのです。」

 ある種の“日本人の好み”は変わらない。
 「国際化が進んでも、日本人は自国意識が外国人に比べて強いと思います。日本人の好きな色を見ても車は白、黒、灰色が圧倒的です。原色は少ない。若い人が赤い服を着ても、髪の毛を緑に染めても、車の色の好みは変わらない。」
 陶芸や建築の分野で日本人はすばらしい美意識を持っている。そういう美しいものや自然への憧憬と調和と簡素さを求める日本人の心は変わってない。

 キーン氏は戦時中に日本兵の日記を翻訳したことから、一貫して文学者たちの日記に関心を寄せてきた。それは日記にはそれそれの個性や人間味が表されていて、それは極めて普遍的で、人間ならみな同じようなことを感じると思われる内容が書かれているからである。
 彼は87歳でなお、コロンビア大学で教壇に立っている。彼の以前からのテーマは、日本人がどういう風に外国の知識を自分のものにして、日本の文化をより豊かにしてきたか、ということである。日本人、特にものを書く人には古典文学を読んで欲しい。外国にはない日本のすばらしい財産である。

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まとめ:

 日本人は身体的に大きくなるにつれ外国との付き合い方もグローバル化し、内と外の意識も薄れ、行動も思想も広い範囲を自由に行き来するようになったように見える。しかし、一方でかつてのように海外のすぐれた文化を積極的に摂取しようとする意欲は薄れている。
 日本が豊かで高い水準の文化を育んできたのは、古来謙虚に積極的に異国の文化を学び取り入れ自己のものとしてきたからだ。そうした過程によって、日本は文化的水準の高さを誇ってきた。
 外国人との付き合いが苦手だが異質なものを積極的に受け入れ消化しようとしていたかつての小さな日本人と、大きくなって堂々と世界に出てはいくが他の文化を異質とか優れているとか意識せずに当然のようにただ受け止めながら自分の世界に閉じこもる日本人と。
 今の日本は昔に比べて本当に国際化されているのだろうか。
 むしろ古典的な日本の文学の中には、普遍的な、グローバルに通用する感情や心理が人間味のある個性を伴って表現されていた。そういう豊かな感情を日本人は大切にして欲しい。
 …これは私なりのまとめ方、感想で、キーン氏の本意をきちんと汲み取っているかどうかはちょっと自信がない。
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by koharu65 | 2009-10-18 14:42 | 雑感


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目に黄色、一面のセイタカアワダチソウ
そちこちで甘い香り、金木犀
鯵のたたき 月見酒

秋深し

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by koharu65 | 2009-10-15 21:34 |

人を疑う

 『忘れられた日本人』(岩波文庫)という本がある。民俗学者の宮本常一氏が昭和14年頃から日本各地を訪ね歩き、古老から農村の様々な暮らしぶりを聞き取りした内容が記されている。その中にこんな一節がある。

 字を知らぬ人間はだまされやすかった。人のいうことは皆信じられた。平生ウソをつく者なら、「あれはウソツキだ」と信用しなくてもすむが、そのほかのことはウソでも本当と信じなければ生きて行けなかったものである。これはウソで、これは本当だと見分けのつくものではなかった。

 人は疑えばきりがない。嘘か真か、字を知る人間でも判断しきれぬものである。

 『あたしンち』(けらえいこ著)という漫画の中で、中学生のユズヒコくんは小さな頃からよくお父さんに騙された。いずれもたわいもない冗談で、お父さんは単にからかっておもしろがってるだけなんだけど。
 みかんちゃん(ユズヒコくんのお姉さん)がユズヒコくんに言う。
 「ユズってすぐ信じるよね~」
 ユズヒコくんは心の中でつぶやく。
 「いいんだよ。ダマされまいとするほうがめんどくせーの!」

 人を簡単に信用してはいけないという教訓よりも、「ウソでも本当と信じなければ生きて行けない」という言葉のほうが、私の胸にはすとんと落ちる。
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by koharu65 | 2009-10-13 21:13 | 雑感

続けて文化人形

 前回作った文化人形が「アメリカの女の子みたい」と言われたので、今度は和風柄の布地を使ってみました。ちょっと理知的で上品な女の子です。

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by koharu65 | 2009-10-12 20:53 | 人形作り

近所の娘さん

 近所に出戻りの娘さんがいる。数年前に子供を連れ実家に戻ってきた。実家の狭い庭いっぱいに大型トラックが一台。娘さんはトラックの運転手だ。砂利を運ぶ。彼女のお母さんによると、働くのが好きで、高校生の頃から早く就職したくて仕方がなかったそうだ。いつも朝早くから大きな車体を上手に操って、家の前の狭い道を出ていっていた。
 それが、この間の総選挙の頃から、しばしば日中もトラックが庭に止まっているようになった。政権が決まらないので、公共事業関係がストップしてるせいだとお母さんから聞いた。
 さて、選挙が終わって、鳩山内閣が本格的に始動している。先日、新聞に「48ダム、年度内凍結」という見出しが載った。
 ごく当たり前に、必要のない公共事業を行うのは税金の無駄遣いで、そういう無駄を排して税金を有効に使おうというのはとても正しいことに思える。私もそう思う。でも、公共事業が減ると、近所の娘さんの仕事もきっと激減するだろうと思うと、必ずしもいいことばかりじゃないような気もする。
 そう言えば、ニューディール政策って言葉を学生の頃、習ったっけ。あれは確か、アメリカが不景気のときに公共事業に力を入れて仕事のない労働者を救済したという話だったんじゃないかな。
 富の再分配という役目が国家の重要な役割で、一見建設業界だけを潤すように見える公共事業も実は、自分の力だけを頼りにこつこつと働く肉体労働者や日雇い労働者たちの生活の糧として切実に必要とされている。
 では、雇用の確保のために環境破壊までして要りもしないダムを造るのがいいのかというと、やっぱりそうもいかない。
 あちらを立てればこちらが立たず。政治とは、経済とは何と難しいのだろう。

 翌日、引き続き考えてみた。
 インフラが整っていなかった時代は、公共事業によって大規模な開発を行ってもそれはそのまま社会の発展に役立つ遺産として残った。今の日本ではそれが“余分な開発”になってしまう。ではどうやって雇用を創出すべきか。
 低賃金で重労働で人手不足の介護業界?細やかな配慮を必要とする難しい職種だと思う。農業はどうだろう?国が大々的に農業を支援する。自給率も引き上げることができて一石二鳥。浅はかな考えかしら?
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by koharu65 | 2009-10-10 21:38 | 雑感