過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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 村上春樹の『1Q84』について、ずっとまとまった感想を書きたいと思ってはいたのだが、読了直前に簡単に思ったことを書いたまま、そのままになっていた。読み終えたときの感動も、内容すらも忘れかけている。未だにどう手をつけたらいいかわからない。とりあえず、小説の広範なテーマのうちの暴力と正しさとについて。

 青豆さんは、理不尽な暴力を受けて虐げられている女性たちのために暗殺をしている。人を殺す、という行為そのものも暴力だろう。暴力を以って暴力を制することが正しいことかどうか。けれど、夫が妻に日常的に振るう暴力と、青豆さんの暗殺は同じ暴力でも意味合いが全然違う。妻に暴力を振るう夫は自分の欲望を満たすためであり、その矛先は抵抗できない弱い者に向けられている。自分の欲望が中心で、欲望を満たすために弱い者を蹂躙する。
 青豆さんは違う。弱い者の側に立って被害者を救済するというはっきりした目的意識を持った上で、自分の持つ技術を駆使して仕事としてそれをやり遂げる。そしてその代わりに、自分自身の精神をすり減らしていく。自分の欲望を満たすための力の行使とは正反対の意味合いを持っている。
 殺される側ははっきりとした悪であり、青豆さんは弱者のために正義のために仕事を遂行する。シンプルでわかりやすい論理。正しさに疑いのない行為であるから、青豆さんには躊躇がない。
 しかし、彼女の最後の仕事はどうだろう?ある宗教団体(明らかにオウム真理教を連想させる)において少女に対するレイプが日常的になされてきたという情報を元に、青豆さんは教祖を暗殺しに赴くのだが、実際に教祖に会ってみると、教祖は殺されることを覚悟していた。というより、死を望んでいた。今まで青豆さんが殺害してきた暴力夫たちと違うものがそこにはあった。
 教祖はいったいどういう存在だったのか。悪役とヒーローと単純に二分化できない何か。集団的な力が作用するとき、個々の人間それぞれを裁くことの難しさ、これはオウム真理教の裁判で実感したことで、未だにわからない。どういう論理でどういう力が作用して、どうしてあれだけ多くの賢い人たちが人に社会に危害を及ぼすことができたのか。法的な処罰だけでは決して明らかにならない秘密がそこにある。
 彼らは正しいことをしているのだと信じてた。それはただオウム真理教事件という特殊な出来事だっただろうか。過去に国家まるごと正しさを主張して命を蹂躙するようなことがあったんじゃなかろうか。そして今現在でもどこかで起こっている出来事なんじゃないだろうか。
 
 小説の中の教祖は言った。

「世間のたいがいの人々は実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する。」
「Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で矮小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。…論理が通っているとか実証可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味ももたない。多くの人々は自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている。」

 “宗教とは真実よりはむしろ美しい仮説を提供するものなのだ”。

「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。」

 青豆さんは言った。

「そしてあなたは自分の娘をレイプした」
「交わった」と彼は言った。「その言葉の方が実相により近い。そしてわたしが交わったのはあくまで観念としての娘だ。交わるというのは多義的な言葉なのだ。要点はわたしたちがひとつになることだった。…」

「つばさちゃんについても同じことなのですか?」
「同じことだ。原理としては」
「しかしつばさちゃんの子宮は現実に破壊されていた」
男は首を振った。「君が目にしたのは観念の姿だ。実体ではない。」

“あらゆる肉体は程度の差こそあれ非力で矮小なものであり、いずれにせよほどなく崩壊し、消え失せてしまう。”
 だから、非力で矮小な肉体やその肉体が生活する現実から解脱して自分の存在が少しでも意味深く感じられるような精神世界に身をまかせることが、正気を保つ方法であるというのか。
 何が実体であり真実であり、何が観念で、何が原理で、何が善で、何が悪なのか、見極め難い。けれど、現実に存在する非力で矮小な肉体を愛おしまなければならないと思う。
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by koharu65 | 2009-11-28 22:17 | 本・小説・映画

風と葉と木の物語(3)

風と葉と木の物語(1)へ
風と葉と木の物語(2)へ

 先日、ある中国語の短編を要約してみたが、要約を読んだ人から「血と肉がない」と言われた。一つには、なるべく短くまとめようとしたため、骨だけ、最低限のあらすじだけになってしまったということ、二つ目には、登場人物の心理描写のうち私にとって共感できず不合理だと思われた部分を大幅に省いてしまったことが原因らしい。
 私が理解、共感できなかったのは、“木”と呼ばれる男性の話の部分だった。
 「ガールフレンドを次々と5人もとっかえひっかえしておきながら、大切にしてもいない相手が去っていったからといって、なんで大泣きするんだ!?ずいぶん自分勝手な男じゃないか。全然理解できない。」
と思っていた。そもそもこのお話がちゃんと理解できていなかったのだった。
 昨日、この話のどこが感動的かというレクチャーを受けて、やっと“木”の心理がわかった。それで、先日の訳が全然まずいということがわかったので、“木の話”の部分だけあらためて全訳してみようと思う。(興味のある人もいないと思うけれど、自分の勉強のために。)

--------------------------

 最後に“木”の話。
 僕が“木”と呼ばれるのは、水彩画が得意で、特に木の絵を描くのが好きだからだ。作品には、サインの代わりに右下に一本の木を書く。
 高校の三年間、5人の女の子と付き合った。ある女の子がいて、僕は彼女を愛してた。ただ、彼女と付き合おうとは思わなかった。彼女は美しくもなかったし、スタイルもいいわけじゃない。特に人をひきつけるような魅力もないごく平凡な女の子にすぎなかった。でも僕は彼女のことが確かに好きだった。彼女の素直さ、純粋さ、かわいらしさ、あんまり賢くないところとか、弱さとか、本当に好きだった。
 彼女と付き合おうとしなかったのは、恋人同士になってしまったら、今までのいい関係が崩れてしまうんじゃないかと恐れたからかもしれない。或いは、みんなにからかわれて彼女が傷つくのを恐れたのか、それともどっちみち彼女は僕のものなのだから、急ぐ必要はないと思ったのか。彼女のために一切を捨ててしまうのは早すぎると思ったのか。
 それで結局のところ、僕は三年もの間彼女をただ僕の傍にいさせて、僕と他の女の子が仲良くしているのを眺めさせて、彼女の心を傷つけてしまった。
 僕と二番目のガールフレンドがキスしてるところに、彼女が出くわしたこともある。「どうぞ、つづけて。」彼女はそう言って駆けていった。次の日彼女は目を真赤に腫らしていた。僕は誰が泣かせたのか知らないふりをしてわざと彼女をからかった。放課後彼女がひとり教室で泣いていたとき、たまたま戻ってきた僕が1時間もその様子を眺めていたのを、彼女は知らない。
 四番目のガールフレンドは彼女のことをひどく嫌っていた。ある時、僕のガールフレンドと彼女がケンカしたとき、僕はガールフレンドの方をかばって彼女を叱った。彼女はびっくりして大粒の涙をこぼした。彼女の涙を無視して、僕はガールフレンドと教室を出た。次の日彼女は何もなかったかのように僕に話しかけてきたけれど、僕は彼女が辛い思いをしているのを知っていた。でも僕がそれ以上に苦しんでいたのを彼女は知らない。
 そして、五番目のガールフレンドと別れた僕は彼女を誘って遊びに出かけた。一日遊んだその帰りがけに、僕は「実は話があるんだけど…」と切り出した。彼女は言った。「ちょうどよかった。私も…。」「彼女と別れたんだ。」「私、彼と付き合うことにしたの。」僕には“彼”が誰だかすぐにわかった。ずっと彼女を追いかけてた年下の男だ。かっこよくて、明るくて、情熱的な男だ。人目も気にせず彼女を追っていた。胸の痛みを感じたが、僕はただ笑って祝福した。
 けれど、家にたどりつくと、耐え切れないほどの痛みが襲った。胸が苦しくて息ができないほどに。叫びたくても声がでないほどに。突然涙がこぼれ落ち、僕は顔を覆って大泣きに泣いた。彼女が自分の気持ちを認めようとしない者のためにこんなふうに顔を覆って泣くのを、僕は何度、見ただろう。
 卒業式の日、あの日以来ずっと切っていた携帯に一通のメールを見つけた。それは十日前、僕が泣いたあの日に送られてきたものだった。

 “葉が離れるのは風のせい?それとも木が引き留めないからなの?”
 (“葉子的離開、是風的追求、還是樹的不挽留”)

--------------------------おわり

 彼は始め、自分が彼女を好きな事を認めたくなかった。友達として自然に傍にいる存在だけれど、特別に付き合うような異性としてみていないつもりだった。それが、彼女の一途な様子を見ているうちにだんだんと心を打たれ、また、これじゃあいけないと思うようになった。しかし、時すでに遅し。彼女は別の男のものに…。
 わざと大切にしていなかったのではなく、自分にとって本当に大切なものは何か、ということに気づかなかったということだ。
 最後の最後に携帯のメールに気づくのが遅かったのも、物語の作者が、本当の自分の心から目を背け大切なときに大切なことに気づこうとしない彼に課した彼自身の命運だっだのだろう。
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by koharu65 | 2009-11-25 22:13 | 雑感
 久しぶりに空を飛ぶ夢を見た。
 昔、精神科医の話で、空を飛ぶ夢を見るのは子どもだけ、と聞いたことがあるが、そんなことはないと思う。大人でも空を飛ぶ夢を見る人は結構いるんじゃないかな? どうだろう?
 村上春樹が、河合隼雄との対談で、あまり夢を見ない、と言っていた。それを聞いた河合さんが、そうでしょう、貴方は物語を書くから夢を見る必要がない、というようなことを答えていた。とすると、私がよく夢を見るのは、現実の世界で創造的な仕事をしていないせいかもしれない。
 それはさておき、久しぶりに夢の中で空を飛んだ。以前の夢では空を飛ぶ時は水の中を泳ぐように手と足で空気を掻いて進むことがほとんどだった。ところが、今回初めて、ホウキに乗って空を飛んだ。庭の落ち葉を掃くのに使う長い竹箒だ。柄にまたがって飛ぶのだが、操縦方法がよくわからずなかなか上手く飛べない。浮いてはいるものの方向が定まらず前に進めない。地面から少し上のところでまごまごしている。もどかしい。
 しばらく姿勢を変えたり力の入れ具合を変えてみたり足で蹴ってみたり試行錯誤して、ようやくゆっくりと低空飛行だが、思う方向に飛べるようになった。すっと高く自在に舞い上がれたらどんなに気持ちがよいだろうにと思う。
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by koharu65 | 2009-11-24 21:34 | 夢の話

風と葉と木の物語(2)

風と葉と木の物語(1)へ

“葉子的離開、是風的追求、還是樹的不挽留”
『風と葉と木の物語』


 まずは“風”の話。
 僕の好きな女の子は “葉”と呼ばれてる。彼女は一本の木に恋してる。だから僕は風になろう。一陣の風となって彼女を守ろう。
 初めて彼女に気づいたのは高二の秋だった。彼女は運動場の隅のベンチに座って一心に誰かを見つめていた。彼女の視線の先にはいつも同じ男。僕は風になって彼女の心を動かしたかった。しかし、彼女の心はかたくなで、何度アプローチしても拒まれるばかり。いや、彼女はかたくななのではない、彼女は単に木から離れたくないだけだ。それでも僕はあきらめなかった。4ヶ月の間に数十回、告白した。その度に彼女は僕の言葉をはぐらかす。それでも僕は決してあきらめなかった。必ず彼女を僕のものにするんだ。
 ある日、僕はいつものように、電話で彼女に愛を告白した。一縷の望みを抱いて。彼女は黙ったまま何も答えない。「なんで黙ってるの?何か言ってよ。」「うなづいてるのよ。」「え?」「私はうなづいてるんだってば!」
 僕はあわてて外に出て自転車に飛び乗り、彼女の元へと走った。

 “葉”の話。
 高校時代、葉っぱを集めるのが好きだった。どうしてだろう?それはおそらく、一枚の葉が、長い間頼りにしていた木から離れるその勇気に感嘆したからだと思う。
 高校の三年間ずっと仲良しの男の子がいた。恋人同士ではない。親友のような関係。けれど、彼に初めて彼女ができたとき、胸が張り裂けそうになった。2ヶ月後、彼がその彼女と別れた時は、うれしくって飛びあがりたい気持ちだった。けれど、彼にはすぐにまた新しい彼女ができた。私たちはお互いに何もかもわかりあっていて、お互いに友だち以上の感情を持っているはず。なのに、なぜ彼は…?
 それでも、私は彼が好きだったし、ずっと傍にいた。彼が戻るのを、三年間待ち続けた。胸の痛みに耐えながら。
 三年の後期になって、後輩の男の子から交際を申し込まれた。断わっても断わっても熱心に誘う彼に、私の心は揺らいだ。彼はまるで、暖かくやさしくそして絶え間なく吹く風のように、ゆらゆらと今にも落ちそうな葉を誘惑した。私は気づいた。この風は傷ついて疲れきった葉に幸せを運んできてくれるに違いないと。
 そして、私は木から離れた。木はただ黙って微笑むだけで、私を引き留めはしなかった。

 最後に“木”の話。
 僕が“木”と呼ばれるのは、水彩画が得意で、特に木の絵を描くのが好きだからだ。作品には、サインの代わりに右下に一本の木を書く。
 高校の三年間、5人の女の子と付き合った。本当はある女の子のことをとても好きだったのだけど、なぜかその子には付き合おうと言わなかった。
 告白しなかったのは、恋人同士になってしまったら、今までのいい関係が崩れてしまうんじゃないかと恐れたからかもしれない。それともどっちみち彼女は僕のものなのだから、急ぐ必要はないと思ったのか。
 それで結局のところ、三年もの間、彼女は僕の傍にいて、僕と他の女の子が仲良くしているのを眺め続けることになった。
 僕と二番目のガールフレンドがキスしてるところに、彼女が出くわしたこともある。「どうぞ、つづけて。」彼女はそう言って駆けていった。四番目のガールフレンドは彼女のことをひどく嫌っていた。ある時、僕のガールフレンドと彼女がケンカしたとき、僕はガールフレンドの方をかばって彼女を叱った。彼女はびっくりして大粒の涙をこぼした。
 そして、五番目のガールフレンドと別れた僕が、彼女にそのことを伝えたとき、彼女はこう言った。「実は私、彼と付き合うことにしたの。」僕には“彼”が誰だかすぐにわかった。最近ずっと彼女を追いかけていた年下の男だ。胸の痛みを感じたが、僕はただ笑って祝福した。
 家にたどりつくと、耐え切れないほどの痛みが襲った。胸が苦しくて息ができない。涙がこぼれ、僕は大泣きに泣いた。
 卒業式の日、あの日以来ずっと切っていた携帯に一通のメールを見つけた。それは十日前、僕が泣いたあの日に送られてきたものだった。

 “葉が離れるのは風のせい?それとも木が引き留めないからなの?”
 (“葉子的離開、是風的追求、還是樹的不挽留”)


 だいぶん意訳してあるし、だいぶんはしょってあります。
 初出と思われる中国語の原文はこちら↓にありますが、ログインしないと最後まで読めません。
http://cibe.yourblog.org/logs/240455.html
 数ヵ月後に別のブログに転載されたのが、こちら↓です。全文読めますが、風と木の話の順序が入れ替わってます。
http://xiaorui217.spaces.live.com/Blog/cns!C5E86589565304DC!460.entry

風と葉と木の物語(3)へ
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by koharu65 | 2009-11-22 20:46 | 中国・中国語

風と葉と木の物語(1)


 “葉子的離開、是風的追求、還是樹的不挽留”
 “叶子的离开,是风的追求,还是树的不挽留”

 yahoo智恵袋の中国語カテゴリーを見ていたら、たまたま、上記の中国語についての解説をお願いしますという質問が目についた。興味が涌いたので調べてみた。
 中国のネットを検索すると、たくさん出てくる。ずいぶん好まれ流布しているらしい。原典を探したがどうしてもわからない。以前にも、ある言葉(詩)の出典を中国の検索サイトで探したことがあるのだが、これが出典かと思った物語が、最終的はどうやら先に言葉(詩)があってネット上の無名人がその詩からインスピレーションを得て想像した物語だとわかったことがある。ネットで流布した言葉や文章は出所をたどるのがとても難しい。
 それはさておき、標題の中国語を直訳すると、

 「葉っぱが木から離れたのは、風が追ったからか、それとも木が引き留めなかったからか」

となる。
 ネット上ではこの言葉の多くは、男女の愛情関係を例えたものとして用いられている。
 葉(女)はずっと木(男)とともにいたけれど、離れていってしまった、それは風(別の男性)が原因なのか、それとも木(彼)が引きとめようとしなかったからなのか…。葉を男に、木を女に例えてもかまわない。どちらにしろ、葉が木から離れるように男女が別れてしまうのは、風(がさらう)という第三者の存在の所以なのか、それとも相手を引き止めることのできなかった樹の側(恋人に去られた本人)に要因があるのだろうか、という命題を提示している。
 男女の別れに関して、果たしてその原因が外在的なものであったのか内在的なものであったのか、そういう疑問を、葉と木と風の関係に例えて投げかけているのだ。

 私がこの言葉のおもしろいと思うのは、これが、ただ男女の愛情関係だけでない哲学的な意味合いを含んでいるからだ。
 ある出来事に対してある結果が生じたとき、その原因には内在的なものと外在的なものがある。表と裏、陰と陽、ふたつがひとつになって初めて世界が生じる。中国古来からのお得意の世界観だ。
 同じような例えがある。卵からヒナが孵るには、卵を温めるという外部の環境要因と、ヒナになる要素がもともと卵自体に内包されているということ、このふたつの条件がなければならない。外的要因と内的要因のふたつが揃って初めて卵から雛が孵る。
 葉と木と風の例えはそれより少し曖昧だ。要因はどちらか一方であるかもしれないし、両方であるかもしれない、またはどちらでもない、定められた運命であると解説する人もいる。もしかしたら、そういう揺らぎを持った疑問文として提示されているところが、不確実性の時代である現代にこの言葉がウケる所以なのかもしれない。

 …と、ここまで書いて、念のためもう一度日付を遡って検索してみた。すると、2004年の9月に書かれたある無名人のブログに初めてこの言葉が現れる。それ以前は全く検索に引っかかってこない。そして2005年以降検索ヒット数が突如と増える。
 してみると、発祥はもしかしたらこの2004年9月の無名人のブログかもしれない。書かれているのは、風と葉と木の物語。“葉子的離開、是風的追求、還是樹的不挽留”は、この物語の題名である。

物語の内容は次回に!

風と葉と木の物語(2)へ
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by koharu65 | 2009-11-20 23:03 | 中国・中国語

からっぽの野原

 いつも歩く河川敷の散歩コースに、一面の野原がある。何もないただの野原。何もない?何もなくはない。人の腰ほどの高さに一面雑草がはびこっている。ところどころに潅木の塊と、さえぎるもののない四方にのびのびと枝を伸ばした大きな木が数本。一昨年、趣味で押し花をやっている母が、野原の真ん中にカワラハハコグサがあるとどこからか聞きつけてきて、ふたりで取りに行った。道から離れた原っぱの真ん中に、背の高い植物に取り囲まれて、ぽっかりと空間が開けている。そこに白いカワラハハコグサが群生していた。花の盛りには少し遅く、多くは咲ききってしまって、私と母は開いたばかりの真っ白な花を無心に探した。
 そして、野原の端には一軒の小屋。ホームレスが住んでいる。立派な住居があるのだから、正式にはホームレスとは言わないのかもしれない。小屋は、廃材やトタン板を使って作られているが、高さも広さも充分で造りもしっかりしている。台風にもびくともしない。長屋のように真ん中が壁で仕切られていて、玄関は二つある。小屋の前には、犬が二匹、紐で繋がれている。小屋に近づくと犬たちが狂ったように吠えるので、私の連れた犬はそれに怯えて小屋へは近寄ろうとしない。近くを通ろうとするだけで、足を踏ん張って尻込みする。
 小屋はいつ頃からあっただろう。3、4年ほど前、妹が犬を連れて土手を散歩しているとき、空き缶を山ほど積んだ自転車の老人に犬のことで話しかけられ、しばらく立ち話をした。その老人が小屋の主であった。市内に息子がいるが、一人で暮らしたくて建てたのだという。昔、北海道の開拓民をしていたので、自分で家を建てることなど造作もないことだ、と自慢げに言った。電気もある。テレビも見れる。(発電機を使っているのだろう。)俺は一人暮らしで、隣は二人で住んでる。隣は新聞も取ってる。(取るほうも取るほうだが、届ける新聞屋がすごいと、私は思った。)
 最後に老人は、まあ、今度一度遊びに来いや、ちゃあ(茶)くらいは出すで、と言ったそうだ。妹は、ホームレスの人にお茶に招待されちゃったよ、と笑いながら報告した。
 さて、数日前、いつものように散歩に出かけると、例の野原がまるまる、きれいさっぱりと刈り取られていた。すっきりして見通しがよくなった。大きな木と、いくつかの小さな木を残して、広々としたまっ平らの土地。からっぽの土地。こぎれいで気持ちがいいと思うべきなのだろう。
 けれど、その光景は、まるで見慣れた無精ひげの男が突然ひげを剃って目の前に現れたようで、いつもと違う顔にどう対応したらいいのか戸惑う。のっぺりとむき出しになったその顔からは、ひげとともに男の豊かな表情までが奪い去られてしまった。
 小屋はどうなっただろう。野原の向こうを見やると、木の下にまだしっかりと立っている。少し手前で草刈機が刈り残した草を探している。小屋の入り口で作業服を着た男が二人、何事か相談している様子だ。傍らに停めてあるワゴン車といい、市か県の職員じゃないかと思った。いずれ小屋も取り壊されるのだろう。住人はまだいるのだろうか。
 次の日、少し遅い時間に、尻込みする犬をむりやり引っ張りながら小屋のそばを通ってみた。もうあたりは薄暗い。犬の声もしないし人気も感じられないので、思い切って小屋の前まで進んでみた。小屋と小屋が背にしている大きな木だけがまるく取り残されている。誰もいない。半開きになったトタンの戸がゆらゆらと風に揺れている。老人は息子のところへ行っただろうか。戸の奥は真っ暗で何も見えなかった。
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by koharu65 | 2009-11-17 22:18 | 雑感

花婿、完成

 ようやく花婿が完成しました。一応支えなしで立ちます、が、ゆで卵を立てるときのように、注意深く立てないといけません。おそらく震度1くらいで倒れるでしょう。筋金入りのはずなのに、ちょっと頼りないです。
 フェルトの靴やら、胸のフリルやら、シャツの襟やら、花嫁よりこまごまとした部分がたくさんあって手間がかかってます。でも、そういうちまちまとした部分を少しずつ何度もやり直しながら進める作業は、思いのほか楽しいものでした。そしてできあがったときの充実感もまたひとしおでした。
 作ったらいい、と背中を押してくださった方、ありがとうございました。

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by koharu65 | 2009-11-16 21:01 | 人形作り

最近のニュース、二題

 ひとつめ。天皇陛下も定年退職すればいいのに、と思う。もうお年なのだから、忙しすぎる職務を辞して夫婦なかむつまじくのんびりと余生を過ごしたらいいんじゃないかと、そう家族に話すと、妹が、
「でも、そしたら皇太子が天皇になるってことでしょ。天皇って神みたいなものだから、若い人には似つかわしくないような気がする。」
 “神みたいなもの”…、なるほど、天皇は死ぬまで神の依り代でなければならないのか。


 ふたつめ。“社会的制裁”という言葉を聞くたびに、苦々しく思う。

立法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは立法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
…イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書)
 マスコミは犯人を追い回し、鬼の首を取ったかのように責めたてる。彼や彼女がどんな罪を犯したのか、本当にわかって追いたてているのか、それすら疑問に思うほどに。
 誰が、石を投げて罪びとを打ち殺すことができるだろう。罪は法廷で裁かれるべきである。
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by koharu65 | 2009-11-13 21:11 | 雑感

麦のスープ(夢の話)

 久しぶりに夢の話。
 以前はよく夢の話を書いた。最近は夢自体はよく見るものの、朝目が覚めた途端、内容を忘れてしまう。
 おそらく、以前は夢を探り自分自身の心の内側を覗くことによって、なかなか納まりがつかない心の納まりどころを見つけたかったのだと思う。最近夢を覚えていないというのは、もうその必要がなくなってきたということなのかもしれない。
 ところが今朝、目が覚めても夢のシーンがまだ脳裏に焼きついていたので、めずらしいことだと思った。印象に残った理由はおそらくその夢が、食事を最後まできちんと終える夢だったからだろう。
 以前よく見た夢の中の食事は、さまざまな料理が大きなテーブルいっぱいに並べられているのに、いざ食べようとすると何かしらの障害が発生してなかなか思うように食べられないというもどかしいものだった。
 昨晩の夢の食卓はそうでない。4人掛けのテーブルに私も含めて4人座っている。私は料理を3品頼んだ。テーブルに並べられた料理は、すべて同じ大きさの白い西洋皿に乗せられている。そのうちの一品は薄い麦のスープであった。全体的に見た目がとても地味な料理で、味は格別おいしくもまずくもない。私はそれを最後まで淡々と口に運ぶ。
 向かいに座っている男性は俳優の宅麻伸で、とても不機嫌な顔をして一言もしゃべらない。アルコールで赤い顔をしている。彼はレストランに入る前に妻の賀来千香子と待ち合わせをしていたが、彼女は現れたと思ったらまたすぐに去っていってしまった。私と宅麻伸は、レストランの前で、自転車で走り去る彼女の後ろ姿を見送った。そのとき私は、彼女の後ろ姿を見ながら、自転車に乗っていても美しい人は美しいのだな、と思った。
 そういうわけで、宅麻伸が不機嫌な様子をしている理由が私にはよくわかっていたので、それはちっとも気にならなかった。むしろ、奥様をとても愛しているのだと微笑ましく思った。
 彼は自分だけ先に食べ終わると、黙って席を立った。そして勘定を済ませた。私は彼が全員の分を支払ったのか、それとも自分の分だけを払ったのか、気になってしかたがない。隣のテーブルの人たちも彼の知り合いだったので、全員分だとするとおそらく8人ほどで、少なくない金額になる。あれだけ不機嫌だったのだから自分ひとりだけ勘定を済ませただろうか、それとも全員分を黙って支払ってくれただろうか、彼が不機嫌だったこと自体はちっとも気にならないのに、勘定のことだけが妙に気にかかる。自分がお金を持っていなくて支払いに困るというようなこともないのに。
 麦のスープの最後の一口をスプーンで掬いながら、私は勘定のことを気にかける。
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by koharu65 | 2009-11-09 21:31 | 夢の話

コーヒーも鎌足


 井上陽水とタモリがすごく仲良さそうで楽しげで、見ているこちらまで愉快な気持ちになります。
 陽水さんのこの解説で「コーヒールンバ」の歌詞をすっかり覚えました。
 (いったん「コーヒーも鎌足」を耳にしたら、もう「コーヒーも鎌足」にしか聞こえなくなってしまいました。^^;)

 原曲はベネズエラの曲です。日本語の歌詞は原曲の歌詞と全く関係ないオリジナルの歌詞だそうです。原曲のすばらしさは言うまでもありませんが、この作詞もすばらしい。ベネズエラの曲なのに、「アラブ」の、しかも「お坊さん」とは!
 奇想天外の無国籍料理風歌詞でありつつ、ちゃんと日本人のメンタリティに合致した内容を成していて、外国の詞を安易にそのまま訳さないひと昔前の日本人の気概と工夫につくづく感心します。
 今は映画の題名でもなんでも、そのままカタカナにしちゃいますよね。なんだかつまらないと思います。

 ↓1961年発売、西田佐知子の歌う「コーヒールンバ」です。


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by koharu65 | 2009-11-08 21:07 | 音楽