過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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虐待と絞首刑と

 柳美里の『ファミリーシークレット』という小説を読んでいて、民法の822条に「親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。」という記述があることを知る。

 その次の日、新聞で、日本の死刑が今でも絞首刑であると知った。てっきり薬物投与だと思っていた。
 絞首刑と薬物投与とどちらがより苦しまずに済むだろう?
 殺し方によって何が違うのかとか、どんな方法が苦しまさせずに済むのか、などという問題は「死刑そのものの是非」という大きな問題からみたら枝葉末節のものだろうか。死刑そのものよりも、その方法の方が、より以上に目を背けたい事柄であり、語るのがはばかれるような忌まわしさを伴うような気がする。きっとそれが具体的なイメージを喚起させるからだろう。
 以前、テレビでお笑い芸人がその場にある材料で料理をするという番組を見たことがある。生きている蛸やすっぽんを水槽から出して、包丁片手に、ぬるぬると逃げる蛸をぎゃーぎゃー言いながら追いかけていた。見ていて大変不快に思った。プロの調理人がすっすっと捌く美しさがいかに大事なことか。
 それとこれとを一緒にしてはいけないだろうか?

 内閣府の世論調査によると国民の8割以上が死刑制度を容認しているそうだ。過去9回にわたってほぼ5年ごとに行われている調査だが、その結果の推移を見てみると(参照:死刑についての世論調査)、1994年の調査より後、死刑制度に関する世論が急速に容認の方向へ傾き、その傾向が固定化されつつあるように見える。
 1995年3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こっている。

 村上春樹の『1Q84』が女性や子供への暴力とカルト宗教の教祖を取り上げていることを思い出した。
 社会に恒常的に存在している個人的な暴力の破片と組織的なテロの発生と社会全体の見えない意志とがどこかでつながっているように思える。
 そう言えば、『1Q84』の主人公の一人、青豆さんは、プロの料理人のように人を苦しませずに殺すことのできる暗殺者だった。

 柳美里の『ファミリーシークレット』は読み応えがあった。親に子供が殺されるニュースを耳にすると、つい、とんでもない親だと思ってしまう。でも彼女の本を読んで、簡単に批評してはいけない、その背景にあるものに考えをめぐらさなければいけないことを胸に刻んだ。
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by koharu65 | 2010-08-29 21:27 | 雑感
 文化人形の新作です。
 ドレスは古い着物の布で作りました。母の七五三の着物です。髪の毛は今までのような毛糸でなく、日本人形の髪の毛に使うスガ糸という材料を使ってみました。本物の髪の毛みたいです。
 「顔がおおきい」とか、「この前の方がかわいかった」とか、あまり評判がよくありません。前回の人形より愛嬌があって、私はこちらの方が好きなんだけどな。

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by koharu65 | 2010-08-27 23:41 | 人形作り

『COOKIE』- 尾崎豊




 車を運転していたらラジオから流れてきた曲に、うん?と思った。その曲が耳に入るまではいい加減に聞き流していたので、タイトルも歌手名もわからないまま曲が始まった。
ヘイ! おいらの~ 愛しいひ~とよ~♪
おいらのため~にクッキーを 焼~いて~くれ♪

 ずいぶん時代錯誤の歌だな、と苦笑した。図々しい男だ、きっと昔の歌なんだろうな。
 ところが、次のフレーズを聞いて、ちょっと言葉のセンスが普通じゃない、とたちまち引き込まれた。

 まず始めに、毎日の生活の鬱屈ややるせなさ、「僕」の抱えてる感情が、巧みで独特な表現を通して、ずしりと伝わってくる。
とりとめのない孤独、目隠しされたまま仕事抱えているよう、目頭とがらせて競い合ってるだけ、生きてゆくための愛し方さえ知らない…

 次に、「僕」を取り巻く今の社会がどんな社会なのかということが語られる。
人を脅かすニュース、美味しい食事にさえありつけない、空から降る雨はもう綺麗じゃない、狂わされた季節、偽られる正義や真実、もて遊ばれる人の命…

 今の社会にも共通するような問題を、短い歌詞の中でくっきりと浮かび上がらせている。
 それから、そういう様々な問題点を抱えた社会と自分との関係性についての疑問、憤りが表出される。
好き嫌いなく食べろと、大人の言うことを信じろと、嘘をつくなと、言われ育った、答えを出さなければならなかった、親が作った経済大国、一人歩きする文明、法律の名のもとに作り上げた平和…

 「僕」は社会の欺瞞を見抜き、「首をひねって悩むのは何故」と問いかける。号令のように唱えられてきた価値観や道徳に疑問を投げかける。「未来を信じて育てられて来たのに」、今、本当の幸せがこの社会にあるのだろうかと。

 最後に、僕は、「答えはまだ何も出されていない」けれど「明日を信じて生きてゆこう」と思う。「急ぎ過ぎた世界の過ちを取り戻そう」と思う。

 生活の鬱屈と社会や大人たちへの不信や疑惑を語る合間合間に「愛しい人」への希求が幾度もリフレインされる。僕が未来を信じ生きることができるのは、僕のためにクッキーを焼いてくれと呼びかけることのできる愛しい人がいるから。大人たちが約束したはずの楽園にたどり着けなかった僕は、僕のためにクッキーを焼いてくれる愛しい人に呼びかけることによって、自分自身の楽園を思い描き、明日を信じて生きていくことができる。
 
 こうして最後まで聞いてみると、「おいらにクッキーを焼いてくれ」というセリフは陳腐でも図々しくもなく、実に切実な希求として私の胸に響いてきた。

 曲が終わって、それが尾崎豊の歌だと知らされたとき、そうか、道理で、さすがだ、と納得した。

 でも、もしかしたら、尾崎豊の生きていた時代はまだましだったのかもしれない。「おいらのためにクッキーを焼いてくれ」と言うセリフがそのまま通用しただろうから。今日では、男性諸君はこういうセリフを吐くことすら許されず、よりいっそう孤独な戦いを強いられているのかもしれない。
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by koharu65 | 2010-08-23 20:42 | 音楽

猫は冷房が嫌い?

 夕方、お隣のご主人が、繋いだ紐の先を持って玄関先で猫を遊ばせていたので、暑いですね、と声を掛けた。
 ご主人は、猫も家の中でずっとぐったりしててね、ちょっと日が翳ってきたからようやく表に出したんだよ、と言った。
「家の中でなるべく涼しいところを探して、そこからずっと動かないんだ。」
「でも、冷房をつけてるんでしょう?」
「それが、冷房のある部屋には絶対に入ってこないんだよ。」
 へえ~、っと思って、家に帰ってその話を父と母にすると、母が、
「そうそう、xxさんちの猫も、冷房の部屋には入ってこないって言ってた。」
と言う。
 猫は冷房が体に悪いと知っているのだろうか?
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by koharu65 | 2010-08-19 20:24 | 鳥、蛙、魚、犬、猫

犬は雨を予報する?

 夕方いつもだいたい決まった時間に犬の散歩に行く。なので、犬は毎日その時間になると、わんわんと吠え、散歩の催促をする。体内時計なのか、それとも陽の傾きで判断するのか。
 ところが、時々その決まった時間よりずいぶん早い時間にわんわん啼き始める時がある。今日はばかに早くなくじゃないか、と不審に思いながら、やることをやってから行くから待ってなさい、と心の中で命じる。
 すると、そうやってぐずぐずしているうちに、雨が降り出すのである。おや、雨が降るのだったら、早めに催促に答えてあげるのだったと、少し後悔する。私は雨が降る日は散歩に行かない。犬もそれを知ってるから、日中から雨が降り続いている日は、夕方散歩の時間になってもわんわん吠えない。催促しない。でも雨が降りそうなときは、早めの時間にわんわん啼く。
 つまり、犬は、雨の匂いを降る前から感じ取って、その前に早く散歩に行こうと催促をするのだろうか?
 それともただの偶然?
 
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by koharu65 | 2010-08-18 20:57 | 鳥、蛙、魚、犬、猫

かけがえのない命?

 昨日、母が一泊の団体バス旅行から帰ってきました。この時期に団体バス旅行なんて、何時に向こうに着けるか、何時に帰ってこれるかわからないよ、などと皆で脅すし、母も覚悟して行ったのですが、予想に反して行きも帰りもすいすい、だったそうです。
 父は母の旅行の予約の話を聞いたときから、馬鹿な奴だ、とせせら笑っていたので、ニュースの渋滞情報を聞いて、
「おかしい、今日は全然渋滞してないみたいだぞ。」
と、少しがっかりしていたようでもありました。帰ってきたら、そらみたことか、と言いたかったのでしょう。
 金曜日には、
「高速が1000円じゃないからな。やっぱり1000円の土日に集中するんだろう。」
などと言っていましたが、土曜日もそんなに混んでいる様子がなく、盛んに首をかしげていました。
 不思議です。どうしてでしょうね?皆、出控えたのかな?
 今日はさすがに夕方から混むようです。

 さて、前回いただいたコメントへの返信で、簡単に“かけがえのない命”などと言う言葉を使ってしまったけれど、つれづれなるままにさらに考えてみると、どうしたら自分の命がかけがえのないものだと感じられるようになるのだろうという疑問が浮かんだ。
 “その他大勢の私”を“かけがえのない私”と感じるようにさせるのは、周囲とのつながりにおいてだろうか、という自問自答。周りに或いは社会に認められなければ、個としての“私”は成り立たない、消滅してしまうのだという気がする。
 以前、新聞で高校生の息子を自殺で失った父親の話を読んだ。
 息子が自殺する前、彼は息子に「自分を大切にしろ。」と言った。でも息子は「自分が自分でいるために死ぬ」という遺書を残して命を絶った。今、父親は、違うことを言えばよかった、と後悔している。自分のために生きろ、ではなく、俺のために、母のために、周囲の人間のために生きろ、と。
 その言葉だったら、息子の胸に響いただろうか?
 難しいと思うのは、個性をつくるということは私の世界をつくるということなんだけれども、でも一方で私の世界をつくることで、他人の世界との間に壁が築かれてしまう。私とあなたとは別々の人間で、それが個性というものなので、そこにどういうつながりを見出していったらいいのだろう、と思ってしまう。
 極端に狭い私の世界と、細い細い糸のような周囲とのつながり。
 広くて伸び縮みする柔軟な私の世界と、周囲とつながる複数のパイプを形成するには、どうしたらいいのだろう?
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by koharu65 | 2010-08-15 12:38 | 雑感
 人の命はそのときどきで重く扱われたり軽く扱われたり。
 人の命は本当にすべて等しく価値があるのだろうか、と懐疑的にならざるを得ない。
 ただ、庶民としては、人の命がより重く扱われるような時代や場所に生まれた方が、より安心して暮らせるに違いないとは思う。
 他人の生殺与奪の権利を握る身分だったらそんなの関係ないかな?でも身分はひっくり返る可能性があるしね。

 人の命に等しく価値があるとするならば、死刑も戦争もできないはずなんだけれど。
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by koharu65 | 2010-08-10 21:25 | 雑感

風鈴と蝉の声

 軒下に風鈴を吊るしていたら、ご近所さんから苦情が来たことがある。夜、風鈴の音が気になって眠れないからはずしてもらえないかと。南部鉄のいい音がする風鈴だったので、よく響いたのだろう。風鈴も聞く者の心によって、風流だったり騒音だったり。
 
 松尾芭蕉に、

  閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

という句がある。
 先日、風鈴の話を思い出したら、連想ゲームのようにこの句が頭に浮かんだ。風鈴や蝉の声にうるささや風流を感じるのも、私にとってそれがどういう影響をもたらすのか、どんな意味をもたらすのか、私と対象物との関係性に囚われる人の性なのかと。
 蝉はただ自然の命ずるままに鳴くだけである。そして岩はただそこに存在するだけである。蝉の声も岩も、発するものも受け止めるものも、意味も無意味も、堺のないまま、すべてがいっしょくたになってひとつの宇宙に溶け込んでいく。蝉の声が岩にしみ入り溶け合って、“閑さ”=“無”というひとつの宇宙を作り出していく。
 芭蕉の句は、世界に意味を求めようとする“おのれ”を限りなく無にする装置、わずらわしい“私”の存在を消し去る装置なのかもしれないと思った。
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by koharu65 | 2010-08-03 21:05 | 雑感