過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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たんぽぽの階段


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 もうたんぽぽは終わりなのかな。これは四月の十日に撮った写真。

 ここはたんぽぽ、しばらく上ると次はバラ、その次は百合、その次はひまわり、ききょうにコスモス、雪の椿、なんて、上がるにつれてその都度いろんな花が現れる、そんな階段があるかもしれない、と思った。時にはどくだみだったり、時にはイバラが現れたりして。
 そうして、てっぺんまで行くと、今まで見てきた草花が一堂に会した楽園にたどりついたら素敵だな。でも、私はすぐ疲れるし根性もないので、もう上らなくていいや、ここで終わり、と、途中で座り込んでしまうかもしれない。必ず楽園にたどり着けるという信念も持てなさそうだ。
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by koharu65 | 2011-04-29 10:51 | 花の写真

意味わかんない

 テレビをつけたら、たまたま、爆笑問題がどこかの大学で討論会をしていた。たぶんNHKの番組だと思うのだけれど。
 その中で、大田光さんがこんなことを言っていた。彼は以前、ネットの2ちゃんねるでひどく嫌われていて、死ね死ね死ね、と何行にもわたって書かれ、当時ひどく傷つき気に病んでいたそうだ。
 ある時、ある若者が大田さんを名指しで「殺す」と書き込み、それを見た時、彼はほっとしたと言う。
 「死ね」っていうのは、突き放したような感じがするけれど、「殺す」っていうのは、僕が、っていう相手が見える気がして。だからほっとしたんだ。
 「殺す」と書いた人は警察につかまった。「死ね」と書いても何の罪にも問われないけれど、「殺す」と言ったら脅迫罪になるらしい。

 「殺す」という言葉には、僕か君かどちらかが唯一の存在だ、僕が存在するには君を殺すしかない、という感じがある。「死ね」というのは、勝手に死ね、僕と君の間には何の関係もない、僕は僕で生きる、君は君で勝手に死ねばいい、という感じだ。

 二、三十年前「(カラス、なぜ鳴くの?)カラスの勝手でしょ」という文句が流行った。数年前にも「そんなの関係ねぇ」というギャグが流行った。関係性を切り離そうとする潮流はもう何十年も前からずっと続いているのだな、と思う。
 先日も、小学生の姪っ子が、学校の文化発表会でクラスで出し物をするのだけれども、男子グループの案が通って、女子グループの案は通らなかったんだと言う。男子グループの案はこれこれこういうものなんだよ、「まったく、意味わかんない」、だそうだ。最近よく耳にする言い回しだ。初めから意味を追求する気はない。通路は閉ざされている。

 現代という時代は相対主義の時代なんだそうだ。近代の思想では、言葉は真実を語る、と信じられていた。まず、どこかに真理とか正しいことというのが絶対的に存在していて、言葉によってそれを語ることができると。
 それが現代では、絶対的な真理なんてどこにもなくて、誰が語るかということが主体で、君も正しければ僕も正しい、善も悪も何でもあり、正しさなんて価値観なんて相対的なものにすぎない時代だと言う。
 
 それでも、人は真実なるもの、永遠なるもの、を求めたがっているんじゃないかと思う。人類すべてがいつか同じ真理の光に包まれてひとつになることを夢みてるんじゃないかと思う。
 他人に投げつける「死ね」という言葉も、もし本当に僕の生も君の死もまるっきり関係ないと思っているのなら、そんな言葉すら投げつける必要はないはずだ。突き放すことは相手を傷つけることだと知っていて、自分の言葉が相手に与える影響を試している。関係したがっている。ただし責任だけは負わずに。
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by koharu65 | 2011-04-24 10:32 | 雑感
 夫と電話で話す。
「ACジャパン(日本公共広告機構)のテレビCMがしょっちゅう流れてて、気持ちが悪くなる。節電しようとか、買占めは止めようとか、人に親切にしようとか。ある詩人の詩が使われているんだけど、こういう時にこういう詩を使う意図は何だろうって。一種の洗脳かもしれない。誰かが必死で、私たちをなだめようとしている。
 でも一方で、こういうのは仕方のないことかもしれないって思う気持ちもある。日本の政府が本当のことを伝えないで、大丈夫だって言うのも、わかる気がする。私たちは本当のことを知らないほうが結局のところ幸せなんじゃない?」
 と、私は、以前、話したことを蒸し返す。
「それはファシズムだよ。」
 夫も以前と同じ答えを繰り返す
「うん、わかってる。
 でも、例えばね、この前、雑誌(AERA4/18)に載ってた話なんだけど、東京都内に勤める外資系の女性の話で、震災当日にもう会社から大阪への避難命令が出て、家族で一週間ホテルで過ごして。費用は全部会社持ちで。その後、東京のオフィスは閉鎖で、彼女は韓国に移って働いてる。
 こういうのを聞くと、欧米(たぶん)の国って危機管理がしっかりしていて、判断と決断が速くてすごいな、って思うけど、じゃあ、これと同じ事を日本の全部の企業がやろうとしたらどうなる?東京は大パニック、大混乱でしょう?
 内乱の起こったリビアでだってそう。外国人はいち早く逃げるのが危機管理の大事さって言うけど、リビア人は逃げられない。銃弾の飛び交う中で生活している。日本人だって、放射能という見えない銃弾が飛び交う中で、いつミサイルみたいな大きな余震が飛び込んでくるかわからない中で、生活していかなくっちゃならない。
 本当のことが話すのがいいってことはわかってる。だけど、本当のことを伝えた上でパニックにならない状況を作り出す、国民の安心を導く力が、日本の政府にあるのかな?伝えたあとのフォローができないのなら、或いは、下手な伝え方をするくらいなら、伝えないほうがまだましだってことはない?」
 夫は、うん、そうだね、同感だよ、と言った。でもそれはおそらく私をなだめるためだと思う。きっと私は間違っている。

「日本はこの事態を本当に収束させることができるのかな?」
「大丈夫だよ。アメリカ軍がついてるから。日本政府だけだったらだめだろうけど。
 アメリカ軍は、ロシアより中国より、ずっとずっといろんな方法を知ってる。いろんなことができる。」
「そうなんだ。日本はアメリカと同盟国でよかったね。」

 震災や原発関連で様々なテレビ番組がある中、池上彰さんの番組だけが唯一、人を心から力づける番組だった。先週は、震災から一ヶ月以上経ち、被災地の人々がごく自然にごく普通に生活している場所へ池上さんが直接訪れてごく自然に普通に話をしていた。被災者たちを特別に扱っていない、がんばりましょうと励ましもしない、ただ、ごく普通に淡々とやるべきことをやっている人たちの姿を紹介していた。最後に池上さんが言った。私たちは普通の生活をしましょう、と。
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by koharu65 | 2011-04-16 14:50 | 雑感
 ずいぶん昔に、河合隼雄さんの『人の心はどこまでわかるか』という本を買った。河合さんは故人となった。この中に、時々本棚から取り出して読み返したくなる一節がある。

(以下、引用)


「一応外見は普通にしてないと、この世に生きていけないからね。普通の人になるということは大変にさびしいことなんですよ。だからぼくは、心理療法というのは、普通の人にするのが目的ではないと思っているんです」
…(略)…
 私たちがこの世で生きていくためには、妄想があるより、ないほうが楽に生きられます。また、当人も、おそらく妄想があるより、普通になったほうが楽だと思っておられることでしょう。だからこそ、それを治してもらいたくて相談に来るわけですから。
 この点に関して、私には忘れられない経験があります。
 かなり症状が深い人でしたが、私のところで話をしたり、箱庭などをつくったりしているうちに、感覚が研ぎ澄まされてきたのか、そんなことは全然なかった人が、急にクラッシック音楽をすごく好きになったり、むずかしい小説などを読むようになったりしだしたのです。たとえば、三島由紀夫の小説を読んできて、そのことを感激して話され、それにはこちらも聴いていて感心するほどでした。しかし、その人自身は、「私はいつになったら治るんでしょうか」と言って、しきりに普通の生活をしたがっているのです。
 そこで私は、「だけど、普通になるということは、朝起きてコーヒー飲んで、新聞読んで、満員電車に乗って、会社で決まりきった生活をして帰ってくるだけなんですよ。いま、あなたはそんなことはせずに、クラッシック音楽を聴いても、小説を読んでも、私らの理解を超えるくらいすごいじゃないですか。それに比べたら、そこらのみんな同じ生活をしている人たちと同じになるなんて、つまらんじゃないですか」と言いました。
 すると彼は、はっきりした口調でこう言いました。
「先生、ぼくはそういう普通のことがしたいのです」
 これには、私も愕然とさせられました。
 しかし、そういうこともすべてわかった上で、だからといって、私たちが普通の人をつくろうとしだしたらよくないのではないか、というのが私の考えです。
…(略)…
 以前、がんこな幻聴に悩まされていた人が私のところに来ていました。私と会っているうちにそれが完全になくなったらしく、「このごろ、幻聴がまったくなくなりました」と言うので、「それで、どんな感じですか」と聞いたところ、こう言われました。
「なんか、年来の友人を失ったような心境です」
 やはりがんこな幻聴に悩まされているという芸術家の方が来たこともありました。「先生、この幻聴を、なんとかしてくれませんか」というわけです。そこで私はこう言いました。
「幻聴を取ろうと思えば取ることはできるでしょう。ただ、幻聴はなくなったけど、それによってあなたの芸術家としての独創性もなくなってしまったということになる可能性もありますよ」
 そうしたところ、「しばらく考えさせてください」と言って、その日は帰っていかれました。そして、数日後に連絡があって、「よくよく考えてみましたが、もう少しこいつ(幻聴)とつきあってみることにしました」とのことでした。
…(略)…
 普通の生活ができない苦しみと、普通の生活ができるようになった苦しみと、両方があるということを、私たちはつねに念頭に置いてクライエントと接していかなければなりません。

~『人の心はどこまでわかるか』河合隼雄 講談社+α新書 より~

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by koharu65 | 2011-04-15 21:59 | 本・小説・映画

感情の抑制

 北京老学生さんのブログで、海外のメディアに載っている震災の写真を見た。日本のメディアの遺体を載せないという一律の自主規制には疑問を感じる。
 日本の大手新聞に載っている写真を改めて気をつけて見てみると、両者の違いは、単に遺体の忌避だけじゃないように感じた。
 受ける印象がずいぶん違う。海外のものは、人間の感情を直接的に映しているものが多い。日本の写真には表情があまりない。強い印象や強い感情を意図的に排除しているようにも見える。いや、意図的ではないのかもしれない。或いは、感情を抑えて、目の前の光景を均一に平板に切り取ることが、日本人の文化的習性なのかもしれない。日本画のように。
 
 写真だけじゃない。震災以降、日本のメディア或いは世の中の空気は必死でパニックを抑えようとするがために、恐怖や不安や怒りや悲しみをも無理やり閉じ込めようとしているんじゃないかという気がする。それは果たしていいことなのか悪いことなのか。秩序正しく行動することは社会の安全にとってはいいことかもしれない。けれど普通の人間の自然な感情を社会の空気という圧力によって閉じ込めるのは、個人個人の人の精神を歪めるような気がする。
 子どもたちの精神的ケアとか、遊びで笑顔をとか、呼びかけるのにも、デマや流言飛語を削除せよというのにも、ACジャパンがやたらと道徳的広告を流すのにも、どこか不穏な、奇妙な、病的なものを感じる。理屈ではどれも反対しようのない正しさを主張しているものばかりなだけに、余計に、胸騒ぎがする。本当にそれでいいのだろうか。

 地震が起きてすぐの頃、テレビで何度も見たビデオの中に、高台から人々が津波に押しつぶされる家々を眺めている光景があった。大人たちが声もなく呆然と見ている中、一人子どもの、恐怖に泣き叫ぶ大声が響いた。この声はいつまでも私の耳に残っている。それ以降、日本のメディアを通して、こういう“叫び声”が聞こえてきたことはない。

 朝日新聞では、毎日いろんな被災者の個々人の“物語”が多くのスペースを割いて紹介されている。顔写真入りで。しかし皮肉なことに、多くの人の話を数多く紹介すればするほど、個々人の顔の印象は、多くの被災者のうちの一人として、群集の中にまぎれ、薄まっていってしまう。

 皆ががんばっている、がんばろうよ、がんばって、一丸となって、気持ちをひとつに、ありがとう、感謝してます、助け合おう、そんな綺麗な言葉だけが人の感情なのだろうか、それだけが事実なのだろうか。
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by koharu65 | 2011-04-12 23:19 | 雑感

さくら、さくら、さくら

 今年の桜はピンク色が濃く、咲き方がとても綺麗という評判だ。開花が遅れ、寒さに長く耐えていたせいだろうか?
 家から自転車で7、8分ほど走ったところの個人のお宅の庭に見事な枝垂れ桜がある。
 下の写真は、その一本の大樹をいろんな角度から眺めたもの。枝振りが複雑で、見る角度によっていろんな姿が楽しめる。わざわざ見に訪れる人もいれば、通りがかった車が道路の端にゆっくりと寄って止まり、出てきたのが20代前半の若者で、うわぁ、すげえ、と言いながら携帯で写真を撮ってたりもする。縁もゆかりもない者同士が、同じ桜を見上げながら、その美しさを観賞するというのは、互いに言葉を交わさずとも心がいっとき交流しあい溶け合うようで、なんとも穏やかな心地にさせられる。
 電線がなからましかばよからまし。

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by koharu65 | 2011-04-09 14:53 | 花の写真

たんぽぽと犬


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 犬はなかなかじっとしていてくれないので、写真を撮るのが難しいのであった。
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by koharu65 | 2011-04-08 21:46 | 鳥、蛙、魚、犬、猫
 思うのだけれど、自粛というのは“自ら行いを慎む”ということであるから、自粛すべきだなどと言って自粛を促すのなら、それはもう“自粛”と言えないんじゃないだろうか。「自粛すべきだ」という発言は、そもそも自粛という言葉の意味を取り違えているし、自分以外の人間の主体性を踏みにじっている。私が不快感を覚える理由は、この辺にある。
 花見を自粛することの是非以前に、公の地位にある者がこういう言い方をするという事自体に、私は良からぬものを感じる。人々の精神の自由を奪うことに対する鈍感さや傲慢さが隠れているように思えてならない。
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by koharu65 | 2011-04-06 21:59 | 雑感

知る権利

 知り合いの30代の男性が、日本政府は本当のことを隠している、と憤っていた。
 ネットで、田原総一郎とソフトバンクの孫社長の対談を見たそうだ。私はその対談の映像を見ていないので、なんとも言えないのだけれど、知り合いの言うには、
「日本はデータを全部公表してないし、起きていることを明らかにしていない。隠してる。これじゃあ、中国や北朝鮮とまるっきりおんなじだよ。」
と、ひどく怒っていた。
 私は、うんうん、と聞いていたけれど、後から夫に、
「…って、○○くんが言ってたけど、庶民がすべてのことを知ったからって、何もできないんだし、知らない方がいいのかも。」
と話すと、
「はは、それってまさに中国共産党のお偉いさんたちの考え方だよ。だめだよ。そんな考え方しちゃ。」
と冗談半分にたしなめられてしまった。
「でもさ、庶民の立場から言ったってさ、自分にはどうしようもないし、本当のことを知ったって不安になるだけなんだから、それより何も知らずにせめて精神的安定を保った方がいいんじゃないの。」

 まあ、隠しながらなんとか力ずくで事を解決してくれるならまだいいけれど、解決する能力がないということ自体を隠そうとしているのだとすると、それは本当に恐ろしいことなのだけれど。
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by koharu65 | 2011-04-05 20:33 | 雑感

自粛

 少し前に、この大災害によって「欲しがりません、勝つまでは」の空気が満ちるんじゃないかと思ったけれど、それは時代錯誤の私の勘違いで、今の日本は違うのだ、という話をこのブログに書いた。
 でもこの頃なんだか“今の日本は違う”とばかり言えない雰囲気が漂ってきて、ちょっと抵抗を感じる。祭りが中止になるし、花見を自粛しろだとか、節約しようと有名人が呼びかけるCMがあったり…。
(テレビで芸能人が呼びかける道徳は、交通標語と同じで、何にも伝わらない。被災者の顔を映すだけにしたらどうだろう。芸能人に、したり顔で諭されるよりずっと心に響くと思う。)

 自粛って便利なやり方だ。自粛を呼びかける側は責任を取らずに済む。命令や強制じゃなくて自粛なんだから、皆が自主的に行いを慎しむのだから、その結果誰が不便を感じようが不利益を蒙ろうが、自粛を呼びかける側には何の義務も責任も生じない。
 しかも、強制や命令のために必要な監視や管理の必要もない。市民自身が互いに他人の目を気にして、はばかりあう。

 静岡は祭りや大会が軒並み中止になっている。7月の花火大会まで既に中止が決定している。
 4月始めの静岡祭りも近所の縁日も屋台もなくて、春休みで名古屋から遊びに来ていた甥や姪
をどこにも連れていかないまま、子どもたちは帰っていった。帰り際に岡崎城の桜を見に寄ったら、
ちょうど桜まつりで屋台が出て賑わっていたそうだ。
 それで静岡と愛知ではずいぶん違うんだな、と思った。母が、阪神大震災の時は逆だったかもね、と言った。
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by koharu65 | 2011-04-05 20:22 | 雑感