過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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 26日の朝日新聞の記事。米倉経団連会長は朝日新聞などのインタビューに答え、
原子力発電の是非について「世界のエネルギー政策の柱として、原発は避けて通れない。安全策を見直すべきだ」と延べ、今後も原発の必要性は変わらないとの考えを示した。
 これは、先日このブログで書いた私の父の考え方と同じだ。
 私はそうは思わない。どんなに安全策を講じても、現在の人類にとって原子力は完璧に制御することの難しいエネルギーであって、転換に大きな困難が伴うとしても、徐々に手放す方向に舵を取るべきだと思う。
 しかしこれを、「どちらが正しいか」という形で議論することは、とても難しい。異教徒同士が、「どちらの神が正しいか」と議論するのに似ている気がする。

 同じ日の朝日新聞。作家の高橋源一郎氏が書く文章の中で、自民党議員の河野太郎の言葉が紹介されていた。
…ずっと先の世代を縛るわけにはいかない、それは、経済的合理性の問題ではなく、「文明論に近い」問題なのだ…
 私たちは、未来に向けて、どのような思想を中心として、どのような文明を作っていこうというのか。私たちの意志はどこにあり、どこへ向かっていくのか。
 推進派だとか反対派だとか、既存の思想の対立項から、「広く、遠く、枠を広げて論じる」(「」内は高橋氏の言葉)ことが必要なのかもしれない。


 それにしても、最近の世界の出来事の流れに目を向ければ、個体としてのひとりひとりの人間の頭や感覚を通して導かれる意志が社会の総体に大きな影響を与えていく傾向があるように思う。

 中東の民主化、原発事故、ビンラディン殺害、ハッカーによるソニーの情報流出などの大きな事件の過程や経過を見ると、昔なら国家や組織の秘密として一部に独占されてきた情報が、広く民衆に共有される時代になったと思う。 人々は、支配層が一方的に流す情報や思想を容易に信じなくなっている。個人が国や大企業に暴力的な形で大きな損害を与えることも可能となった。思想的組織的な強制によって人々を支配することがどんどん難しくなっている。
 (だからこそ、より組織の統制力や支配を強めようという反動的な動きも出てくるのかもしれない。)


 …などと考えていたら、29日の朝日新聞でオピニオン編集長の大野博人氏の文章が目に留まった。
 話の中心は、一年前、アイスランドの首都の市長に当選したコメディアンのヨン・グナール市長についてであった。「既成政党は退屈で創造性もない。何とかしなければ」と出馬した市長も、実際に市長として政務に携わってみると現実主義者にならざるを得ないという経済グローバル化時代の民主主義の問題点が指摘されていた。
 経済がグローバル化すればするほど一国の政策の選択肢は限られていく。
           …中略…
 そして、本当に選択肢はないのか、「カルテル化」したエリートたちの失敗のつけを回されているだけではないか、という不信感が人々の間に広がる。
 日本にも重なる政治風景だ。
 次々と首相や与野党が入れ替わっても閉塞感は去らない。深刻な財政赤字に痛みをともなわない解決という選択肢はないかもしれないが、政治家を信じられない。
 原発の将来についても、世論に「脱」の声は小さくないのに、民主党も自民党も、その民意を真正面から受け止めようとしているようには見えない。本当はだれの声を代表しているのだろうか、という疑問がぬぐえない。
 先に、私は、民衆のひとりひとりの意志や力が政治や社会に影響を与える傾向が世界に広がっていると思う、と書いた。確かにそういう個人の自由な意志の実現が可能であるかのような雰囲気を感じるのに、もう一方の現実には、エリート層が囲い込み独占している高く厚い政治の壁があって、それが民衆と政治とのつながりを妨げている。

 ヨン・グナール市長は、創造性のある政治の実現を目指し市民の支持を得て当選したにもかかわらず、実際に政治家という立場になると、現実の経済的問題を日々処理していくことに目一杯となった。ますます複雑化する経済と、その複雑な経済によって網の目のように繋がる複雑な関係。現代の政治家は、市民の声の代表者としての役割を担うのではなく、組織の管理やシステムの経営者としての役割を負い、自ら市民との間に壁を築いているのではないか。
 
 日付を戻して26日、もうひとつ印象に残る記事があった。
 大阪で橋本知事率いる「大阪維新の会」が、君が代の起立斉唱を義務付ける条例案を提出した。橋本氏は、「思想良心の自由でなく、組織マネジメントの問題だ」と語り、これは、教職員の「服務規律の厳格化」を意図するものだ、と言ったそうだ。
 なるほど。組織のトップである彼が語るべきは思想良心でなく、服務規律の厳格化や組織のマネジメントなのだ。組織それ自体が円滑に運営されること、規律が保たれること、彼にとってはそれがとても大事なことであるらしい。
 東電や国も、今まできっと、組織の円滑な運営を妨げる様々な声を押し殺してきたことだろう。
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by koharu65 | 2011-05-31 08:23 | 雑感

黄色い花の咲く場所で

お散歩、お散歩、うれしいな。

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わーい、今日はこんなところで放してもらったわ。
草の匂いが、なんて気持ちいいんでしょう!

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私を呼んでる声がするけど、しらんぷり、しらんぷり。

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しかたないわね、行かなくっちゃ。

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なあに?なんか用なの?

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景色なんて、私、興味ないんだけど…。

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ふわふわね、私もふわふわなの。

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もうお帰りよ、と風の声、もっともっと遊びたかったのに。

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by koharu65 | 2011-05-26 22:40 | 鳥、蛙、魚、犬、猫

原発の根っこ(つづき)

(前回からの続き、ただし余談)

 さて、ここからは余談:
 前述のテレビ番組で、最後に立花氏が次のようなことを言っていた。

 最近になって、東電からメルトダウンが起きた時期など新たな発表が行われているが、アメリカは事故の直後から無人偵察機を飛ばし、かなり詳しい状況を掴んでいた。だからこそ、自国民に80km以内から避難するよう勧告した。
 それとともに、大変なことが起きているとわかっていたからこそ、本気で心配して、アメリカの技術や知識を提供して協力しようと日本政府に申し出た。それに対して、日本側は状況をほとんど掴んでいず、アメリカの目的はデータの収集にあるのだと、始め申し出を断わった。事故の場所で何が起こっているのかを本当に把握してた人は日本側にほとんどいなかったのではないか。もっと早くアメリカの申し出を受けていれば今ごろ違う結果が出ていたかもしれない。
 アメリカは今、イラついている。日本政府に対して、とにかくものすごく怒っているし、全く信用もしていない。

 …というようなことを語っていた。
 そういえば、立花氏が、アメリカの怒りを買った田中角栄をロッキード事件の取材で追い詰めたジャーナリストであったことを思い出した。

 ふたつめの余談:
 立花氏だったか、それとも田勢氏だったかどちらか、記憶が定かでないけれど、上述のアメリカの申し出を拒否したことについて、どうして日本は、この国は、いつも始めの一歩を間違えるのだろう?と言っていた。

 私が思うに、欧米諸国は、こういう時、まずは人命、という原理原則がはっきりしている。自国民の命を守るということが、何はともあれどんなことにも優先する、という強い意思が感じられる。そういう原則がはっきりしているから対応が早い。
 日本はちょっと違う。いざという時も、ひとりひとりの国民の命と何か別の要素とを秤にかけるような躊躇があるように感じられる。

 もうひとつ余談:
 番組の途中、田勢康弘氏が、昨日(20日)、政府に内閣不信任案が提出される予定だったが、失敗した、と言っていた。自民党の総裁が、最後になって怯んだ、と。失敗した理由は何だろう、怯んだとはどういうことだろう、と思って、その続きを聞きたかったのに、その後CMに入って、CM明けにもその理由は語られなかった。どういうことなのか、とても気になる。
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by koharu65 | 2011-05-22 22:24 | 雑感

原発の根っこ

 私の父は、こんな大事故が起こっても、酔いながら、
 「原子力がなきゃ、やってけないぞ。
 こんなふうに、電灯の下で飯も食べられないじゃないか。
 反原発の連中も、反対反対って、電力をどうするってんだ。」
と、クダを巻く。
 私も母も妹も、なきゃないでなんとかやってくでしょ、命の方が大事だ、と思うのだけれど、酔っているときに何を言っても通じないので議論はしない。私たちが考える理屈とか損得とかと、父の考える必要性はどうやら土台からして違っているようなのだ。
 これはいったいどういうことなのだろう、と考えてみる。東電の宣伝活動の成果なのか?
 父が酔った際に出るその他の言葉を思い起こしてみると、日本のエネルギーがどうとか、燃料が永久にリサイクルできるって話はどうなったんだとか、最後に必ずなぜか、人間が宇宙で生活できる時代がどうとか、という話になる。
 これは、もしかしたら、科学の進歩に対する人間の飽くなき追求と信仰という問題なのだろうか。

 世間は、原発には利権があって、その甘い蜜を吸っている人達が手放さないのだと言う。金のなる木は簡単に枯らさないというわけだ。しかし、原子力への固執は、父の口調から想像しても、金銭的な損得勘定だけでは説明しきれないものがある。

20日の朝日新聞で、安斎育郎さんという大学教授のこんな話を読んだ。
 …そもそも、原子力産業は国家の意思なしにはスタートできません。原発は事故が起こった時の被害総額があまりに大きく、大量の使用済み燃料処理にかかる最終的なコストもはっきりしない。一般の企業がこんなリスクを背負うことは到底できず、産業化には「原発をつくる。一定限度以上のリスクは国が肩代わりする」という国策が前提となります。
「国がやる」ということから始まっているから、「やるのがいいのか、悪いのか」という話には、そもそもならない。「反原発」は即、反国家的行為とされます。…

 では、なぜリスクの大きさも最終的なコストもはっきりしないまま、日本は原子力産業を国策として推進しなければならなかったのだろう。

 もう何年も前、ふと、夫に、使用済み燃料の処理に苦慮しなきゃならない原子力発電所って、どうかと思う、どうしてそんなやっかいなものをわざわざ作るのかな、と問いかけたがある。そしたら、夫は、間髪入れず、そりゃ、核兵器のためでしょ、と答えた。すぐにどうこうしようという具体的な目的意識はないとしても、原子力発電所があるとないとでは、いざという時の備えとして、全然違うのだと。
 すると、原発を推進する動機には軍事的側面があるのだろうか?

 しかし一方で、こんな話を見つけた。国際問題アナリストの藤井厳喜という方のブログに書かれている話だ。
日本の愛国者のかなりの部分が、原発は日本のエネルギー自立に有効であると考え、原発推進にくみしているが、現実は全く逆である。

 藤井氏によると、アメリカを始めとする五大核兵器保有国は核独占を堅持するために、核拡散防止条約体制を整えた。日本はこの枠組みの中、「絶対に核武装をしない」という前提条件を受け入れた上で、原子力発電を許されている。だから、「原発は日本のエネルギー自立に全く役立たないばかりではなく、むしろ逆に、政治的力関係においてすら、日本を既存の核大国による秩序に隷属せしめるものなのである」、という要旨だ。
 後半部分の是非はさておいて、原発がこのような枠の中で大きな制限を設けられているならば、核兵器への転用の可能性は始めからないことが明らかである。
 すると、原発推進の国策に軍事的側面の動機を投影するのは、愛国者の実現不可能な幻想というわけだろうか。

 この文章の中で興味深く思ったのは、「エネルギー自立」という言葉だ。「日本の愛国者のかなりの部分が、原発を日本のエネルギー自立に有効であると考え」ているらしい。藤井氏のような国際政治的側面から論じるまでもなく、燃料であるウランを輸入し、廃棄物の処理も海外に委託せざるを得ない現状では、どっちみち「自立」なんてあり得ないんじゃないか。どうして原発が日本の「エネルギー自立」という動機に繋がるのだろう、と不思議に思った。

 などと、考えていたら、今日、たまたまつけたテレビのチャンネルで、国策として原子力が推進されてきた背景について、立花隆が語っていた。
週間ニュース新書
【検証!日本と原子力 “国策民営”の功罪】
~中曽根元総理が語る真実 田中角栄の狙い~
    田勢康弘 vs 立花 隆
 という番組である。
 (途中から見たので、中曽根元総理のインタビューはほとんど見逃してしまった。)
 鉄腕アトムという漫画があった。アトムの動力は原子力だ。妹の名はウラン。という話題が出た。私はこれをリアルタイムには見ていないけれど、アトムの元気さ、明るさ、人気の高さというイメージは容易に浮かぶ。この時代は原子力というのが、日本の未来を切り開く夢のエネルギーであったらしい。
 原子力以前に、電力そのものが文明の証しだったのかもしれない。(そういえば、昔「あかる~いナショナル、あかる~いナショナル…」というCMがあった。これは電力そのものを宣伝しているわけではないけれど、電気(電化製品)によって家中が明るくなり、今までにない新しい世界、新しい幸せが開けるのだというイメージをもたらしていた。)

 日本が戦争に負けたのは、資源と技術において劣っていたからで、一方で、戦後の復興を考えたとき、農業国では四流国として世界から取り残される、新しい文明を全部取り入れなければ生きていけない、と国の指導者は切実な思いを抱いていた。しかし、航空機産業など軍事的利用に繋がる最先端技術の開発は占領国によって禁じられ、平和利用ならばと許された原子力の開発を通し世界の科学技術の先端に並ぶことができるというのは、国にとっても優秀な科学者(の卵)たちにとっても、まさに日本が一流の国家として国際社会に羽ばたく未来への大きな夢の架け橋であったのである。

 そうした「原子力を導入せよ」という時代から、時は次第に、「原子力で潤え」という時代へと移る。田中角栄の時代だ。この頃から、原子力は金になるという話が出てくる。利権が絡むようになるのだ。

 この番組を見て、「自立、自立」というのは、そういうわけだったのか、と合点がいった。原子力発電所そのものが自立したシステムとして存在するわけではなく、原子力を開発してきた動機や過程が、日本にとって戦後復興の歩みと重なり、世界に一流国家として躍り出て、敗戦によって打ちのめされた日本人のプライドと力を回復する、その象徴としての原子力エネルギーだったのだ、と思った。
 事故前に政府が進めていた原子力技術の輸出も、むろんビジネスとしての妙味もあるだろうけれど、技術立国として世界になくてはならない存在になり、日本の地位を確固としたものにするという国家政策なのだ。

 戦時中、電力は国家により独占、コントロールされてきた。それが戦後、分割され、国家と民間企業が手を携え、「国策民営」という形で電力を地方ごとに独占する体制を作り上げた。
 その体制を、今、菅内閣が見直そうと言っている。

 電力会社が、盛んに「安定供給、安定供給」とお題目のように唱えるのを訝しく思っていたが、これは電力を一元的にコントロールするということが如何に重要であるかということをアピールしているのだと気づく。私の子どもの頃はしょっちゅう停電があった。日本の経済を発展させるためには、国家が国策として民間企業を後押しし、電力の安定供給を絶対的な目標としてやってきたのかもしれない。でも時代は変わった。もっと民間の自由な競争や自立する力に任せてもいいんじゃないだろうか。エネルギー体制を大きく見直す転換期が来ている。

 いろいろ考えてみると、原発をめぐる状況というのは、歴史の中で熟成されてきたものであって、確かに私の父の言うように、反対反対と言うだけでは、到底解決できないようにも思う。
 掘り起こしてみると、根っこにあるのは明るい日本の未来を支える神話への信仰である。信仰は理屈ではない。信仰は絶対であって、「やるのがいいのか、悪いのか」という疑問は排除される。
 神話の種を植えたのは戦後の政治家たちであり、光を与え水をやり肥料を与えたのが、その後の利権者だったり、交付金によって潤う地元だったり、核武装への夢を投影した愛国者だったり、天下りの高給取りだったり、様々な立場で様々な思惑を抱えた人々であった。
 大樹の根は、戦後の意識や体制の中でしっかりと息づいている。ここを掘り起こして考えなおさないと、根本からの転換はできないのではないだろうか。
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by koharu65 | 2011-05-22 13:14 | 雑感

ウィーズリー家の魅力

 テレビでたまたま『ハリーポッターと謎のプリンス』をやっていて、中学三年生の甥っ子と一緒に見るともなく見ていた。甥っ子も私も、この映画はすでに映画館で見たことがある。
 ちょうど、ハーマイオニーがロンへの切ない恋心に涙を流しているところをハリーが慰めている、という場面で、私が、
 「ハリーとハーマイオニーって、似た者同士だから、恋人にはなれないんだよね。ハーマイオニーはロンが好きだし、ハリーはジニーが好き。自分にないものを求める。すごく納得できる。上手く出来てると思うよ。」
と言うと、甥っ子が、
 「うん。ウィーズリー家がいいんだよ。俺はウィーズリー家が好き。」
と言った。
 「あ。そういえば、ロンとジニーって兄妹だった?」
 「そうだよ。」
 「ハリーは両親が早くに死んでていないんだよね。
  ハーマイオニーの両親は?」
 「ハーマイオニーの両親はマグル(=人間)で、マグルの世界に住んでる。」
 「そっか。やっぱり、魔法学校では、彼女は異端ってことだ。二人とも孤独なんだ。だからウィーズリー家みたいな明るくて健康的な家庭に魅かれるってことかな。」

 以前、この映画を映画館で見た後、感想を記事にしてブログに載せた。その時はハリーとロンとハーマイオニーの3人の関係には触れたが、ジニーを含めたウィーズリー家との関わりには気がつかなかった。
 我が甥っ子ながら、なかなか鋭いではないか。中学生もあなどれない。
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by koharu65 | 2011-05-20 22:27 | 雑感
 原発事故をめぐる日本の政治的状況について、いろいろ考えることがあるのだけれど、なかなか上手く文章にできない。いつもは、書いた後すぐにブログに載せずに、なるべく“寝かせる(一晩置く)”ようにしているのだけれど、今日は思いつくままに書いてみようと思う。

 昨日、朝日新聞に世論調査が載っていた。それによると、国民は浜岡原発の運転停止に対して、おおむね評価が高い。確かに私の周りの人たちに聞いても“ほっとした”という人が多い。内閣支持率も4月より少し上がった。
 こういうアンケート調査というのは、数字そのものよりも、数字をどう選択、解釈し伝えるかというところが興味深い。

 朝日の見出しは、「政権 世論が頼みの綱」(4面)と書いている。
 管内閣の支持率が先月より上がったことについて、政権は浜岡原発停止の「政治決断」が評価されたからだと受け止めている。今後も世論にアピールし続け、政権を浮揚させたい考えだ。ただ、野党が内閣不信任案提出を視野に対決姿勢を強めるだけでなく、民主党内にも同調を探る動きもあり、反転攻勢は容易ではない。

 この記事によると、政権は世論を支えにしようとしているが、世論以外の力、野党や民主党内の一部の勢力は、内閣を追い落とそうとしていて、政権の安定には至らない、ということらしい。
 これはなんとなく奇妙なことに思える。政府というのは、必ずしも国民の支持によってのみ維持されるものではないと語っているに等しい。私は今まであまり政治に関心がなかったので、おそらく政治と言うものを誤解していたのだ。国民の意志(=世論)を反映するのが政治であり、国民の意志を代表するのが政治家だと。新聞だってなんだって、普段、政府を批判するときよく言うではないか。世論が許さないとか、世論が支持しないとか、まるで国民の意思が政府の進退を決定してるかのように、かつては言い立てていた。(と、私が勝手に思っていたのかもしれない。)
 なのに、政治の中で勢力争いがある場合、世論は押されているほうの一方の頼みの綱であって、政権を安定させるためにはそれだけでは不足というわけだ。
 自民党の石破茂政調会長は15日、…「支持率と求心力の回復を狙った浜岡停止は効果をあげていない。国民の菅首相に対する失望は固定的になりつつある」と分析。公明党の山口那津男代表も「国民は浜岡停止を単発的パフォーマンスと受け止めている」と語った。

 例え浜岡停止がパフォーマンスや演出だとしても、首相が“国民の”歓心を買うのは、いけないことなのだろうか。国民の歓心を買うとはすなわち、国民の希望・要望を叶えるということなのではないのだろうか。
 朝日の記事の書き方や、浜岡停止をパフォーマンスだという国会議員の言葉からは、国民の意思というものが軽んじられているように思えてならない。

 今後の政権を二者択一で選ぶなら、自民党に代わるのがよいが33%、民主党が続くのがよいが22%だそうである。私も震災直後の政府の対応には大きな疑問を抱いていて、自民党の方が上手くやれたのではないか、と思ったりした。けれど、では、自民党が浜岡停止を決断できたかというと、できなかったような気もする。今後の政権を二者択一で選べと問われたとき、「その他・答えない」が45%ともっとも多かった。この結果は、まさに今の国民にとって、“選択肢がない”ということの表れではないだろうか。

*****

 震災後、誰のための政治なのか、ということが露になったように思う。この“誰のため”という部分がこのまま変わらないのか、それとも変わっていくのか。変わるべきだとは思うが、その道のりはとても困難なような気がする。
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by koharu65 | 2011-05-17 23:15 | 雑感

ゴジラディン現る?

 中国のネット上で、こんな小話が流布している。

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 アメリカがオサマ・ビンラディンを水葬したことに対し、日本国民は強い不安を示した。なぜなら、日本の福島原子力発電所から排出された汚水によって、海水が放射能に汚染され、水葬されたオサマ・ビンラディンがゴジラディンとなって出現する恐れがあるからである。
 日本政府はこの懸念を既に国連に伝えた。
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 ちなみに、ゴジラは核実験の放射線で恐竜が変異した生物であるとされている。
 葬られたオサマ・ビンラディンがより強くより巨大な怪物となって再び出現する可能性を、タイムリーに放射能とゴジラに絡めて茶化している。よくできた小話だ。中国人はこういう風刺がとても上手い。
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by koharu65 | 2011-05-15 22:01 | 中国・中国語
 前回このブログに、「東日本大震災によって私たちは、この世界がいやおうなしに突然生命や安全な暮らしを奪われる危険に満ちた世界であるということに突然気づかされた」というようなことを書いた。
 そしたら、ちょうど今朝(5月13日)の朝日新聞で、社会学者のウルリッヒ・ベック(ドイツミュンヘン大学教授)という方のインタビュー記事が目に留まり、今日の世界の危険性ということについて述べられていて、大変興味深い内容であった。

 私は、福島の原発事故を、地震という天災をきっかけとしたものと捉えていた。だからこの世界の危険性(リスク)というものは、今に始まったことではない、ただ私たちは現代の快適な文明生活に囲まれて、本来の自然の恐ろしさを忘れていたのではないか、と思った。
  しかし、それは違った。福島の原発事故は天災ではないということを、私はすっかり忘れていた。ウルリッヒ・ベック氏はこう言っている。
 「…通常の事故は、たとえば交通事故であれ、あるいはもっと深刻で数千人がなくなるような場合であれ、被害は一定の場所、一定の時間、一定の社会グループに限定されます。しかし、原発事故はそうではない。新しいタイプのリスクです」
 「そんな限界のないリスクをはらんでいるのは、原子力だけではありません。気候変動やグローバル化した金融市場、テロリズムなどほかの多くの問題も同じような性格を持つ。近代社会はこうしたリスクにますますさらされるようになってしまいました。福島の事故は、近代社会が抱えるリスクの象徴的な事例なのです」
――日本では、多くの政治家や経済人が、あれは想定を超えた規模の天災が原因だ、と言っています。
 「間違った考え方です。地震が起きる場所に原子力施設を建設するというのは、政府であれ企業であれ、人間が決めたことです。自然が決めたわけではありません」
 「18世紀にリスボンで大地震が起き、深刻な被害が出たとき、当時の思想家たちは、どうして善良な神がこんな災害をもたらすのかと考えた。今日、神を問題にするわけにもいかず、産業界などは自然を持ち出すのです。しかし、そこに人間がいて社会があるから自然現象は災害に変わるのです」
 「これはとても重要なことですが、近代化の勝利そのものが、私たちに制御できない結果を生み出しているのです。そして、それについてだれも責任を取らない、組織化された無責任システムができあがっている。こんな状態は変えなければいけません」

(余談だが、すると、これを神の与えた賜うた罰だと示唆する石原東京都知事は、依然18世紀の思想に留まる生ける化石であるというわけだ。)

 この後、ウルヒッヒ・ベック氏は、私たちが現在使っている多くの制度(例えば保険や賠償の制度など)は、こうした広範で複雑で長期にわたる新しいタイプのリスクに対応しきれない、と述べている。
 
「私たちは、着陸するための専用滑走路ができていない飛行機に乗せられ、離陸してしまったようなものです。あるいは、自転車のブレーキしかついていないジェット機に乗せられたともいえるかもしれない」

では、このような「制御不能なリスク」を私たちはどうしたら退けることができるのだろうか?組織化された無責任システムをどうやって変えることができるのだろうか?
「…近代テクノロジーがもたらす問題を広く見える形にするには民主主義が必要だけれど、市民運動がないと、産業界と政府の間に強い直接的な結びつきができる。そこには市民は不在で透明性にも欠け、意思決定は両者の密接な連携のもとに行われてしまいます。しかし、市民社会が関われば、政治を開放できます」
…(略)…
「産業界や専門家たちにいかにして責任を持たせられるか。いかにして透明にできるか。いかにして市民参加を組織できるか。そこがポイントです。産業界や技術的な専門家は今まで、何がリスクで何がリスクではないのか、決定する権限を独占してきた。彼らはふつうの市民がそこに関与するのを望まなかった」

 全文を私なりにまとめると、

 近代化の結果、現代では、限界のない新しいタイプのリスクを抱えるようになった。そしてそれについてだれも責任を取らない、組織化された無責任システムができあがっている。そういう状態を変え、制御不能なリスクを退けるためには、産業界と政府の密接な連携によって意思決定されている政治を、市民社会に開放しなければならない。透明性を確保し責任の所在を明確にしていくとともに、リスクの判断の権限を産業界や専門家たちだけに委ねず、普通の市民が関与していくことが必要である。

 ということだ。

 これは、まさに今の日本の状況を言い当てていると思った。
 菅首相の浜岡原発停止要請を、スズキの会長が、産業界の重鎮であるという立場を超えて「日本人のひとりとして」歓迎したように、普通の市民としての感覚が政治や世論を動かしていかなければならないと思う。政治やマスコミが産業界と密接に連携しているような状況を、日本はこれから変えていくことができるだろうか。
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by koharu65 | 2011-05-14 15:46 | 雑感
 菅首相の浜岡原発の全炉停止の要請と、それを受けた中部電力の停止決定は、高く評価されていいと思う。浜岡原発は、近い将来に発生する可能性が高い東海地震の想定震源域の上に立地していることから、早急な対処が必要とされていた。
 なのに、この菅首相の英断に対して、大手メディアの論調が必ずしも手放しで歓迎していると見えないのはどうしてだろう。
 “突然”だとか、“法的根拠欠く強攻策”、“電力不足の不安”、“戸惑う…”など、マイナス要素の見出しが躍る。かと言って、福島第一原発の事故が依然として収束しない現状において、国民感情に添うならば、「停止は間違いだ、運転を継続すべきだ」という論調はあり得ない。全体としてはどうやら、停止そのものは賛成あるいはやむを得ないけれど、事前の話し合いもなく突然で、停止によって起こるいろんな問題をどうするんだ、ということらしい。
 今まで継続的に利用してきたものを止めるからには、いろんな新しい問題が発生するだろうし、雇用されている人も交付金を得る地元も株主も電力を使う産業界も一般家庭も、新しい処し方を考えていかなければならないだろう。

 国民の生命の安全ということを機軸に据えるならば、浜岡原発の停止要請は英断であり、評価すべきことであるはずだ。しかし、メディアに見られるこの戸惑いや不安は何だろうと考えたとき、それは変化への恐れではないかと思った。この決定が日本のエネルギー政策に関わる従来の流れを大きく方向転換させるきっかけとなるならば、今までその流れに乗って生活してきた私たちはいったん船を降りる覚悟が必要だ。

 東日本大震災を経て、思い知らされたのは、この世界はいやおうなしに突然生命や安全な暮らしを奪われる危険に満ちた世界である、ということだ。なぜか理由はわからないけれど、今まで国家の根幹に国民の生命の安全を保障するということが抜け落ちていて、それは本来経済や短期的な利潤よりも何よりも優先されるべきことであるのに、ただ経済的成長へと流れに身を任せた生活はそんなことも忘れさせ、震災と原発事故によってむき出しになった世界の危険性に、多くの人は突然気がついた。
 そうした恐ろしい現実を直視するならば、その現実に合わせた新しい機軸、方針を打ち立てなければならない。民間の利潤や個人の利益、経済的な損得を脇にのけても優先しなければならない決定を行うことのできる国家の力というものを見直さなければならないと思う。

 ----------------

 ついさっき、テレビで、スズキの会長の浜岡原発停止に関するコメントを聞いた。
「夏場に向けて電力供給の懸念はしているが、停電はないのではないか」「昨年ピーク時の電力需要でも、原発が止まっても供給の方が上回っている」という見解を示した上で、(中電の停止決定については)「地元企業としても、日本人の一人としても高く評価したい。浜岡原発の近くには相良工場もあり、従業員の安全確保を考えるとホッとしている」と述べた。

 一方、経団連の会長は、9日の記者会見で、「電力不足の中で菅首相がただ30年間で87%の確率で東海大地震が起こる可能性を根拠にして停止を要請したことは唐突感が否めない」と語り、「誰がどのようにして議論したのか、根拠を示したうえで説明する必要がある」と厳しい口調で、要請にいたる経緯が説明不足であるとの認識を示していた。

 同じように功成り名を遂げた財界人であっても、世界をどんなふうに捉えているのか、人によってこうも違うものかと、驚く。
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by koharu65 | 2011-05-10 21:41 | 雑感
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。


 これはACジャパン(公共広告機構)のCMで何度も聞かされている金子みすずの詩である。私は以前から金子みすずの詩をとても好ましく感じていた。でも東日本大震災以降、繰り返しテレビから流れてくるこの詩の朗読を聴いていると、これでいいんだろうか、という疑問が湧いてくる。
 「それはオウムではないの?」と、反問したくなる。
 このCMは2010年度地域キャンペーンとして作られたものなので、震災後に特別に作られたものではない。しかし、震災直後、民間のCMの埋め合わせに公共CMを流そうというとき、数あるストックの中から選択されたものだろうと思う。みんな気持ちをひとつにしてとか日本はひとつのチームだとかいうメッセージと同じ意味合いが含まれている。
 国難に際して一致団結するために、文句や批判や余計なトラブルや、ぶつぶつ不平は言わないで協力しましょうね、「安心」っていうと「安心」って、「風評」っていうと「風評」って、「もう大丈夫」っていうと「大丈夫」って、そうして、あとで、大変なことになって、「ごめんね」っていう、そういう連想をしたくなるような気持ち悪さを感じてしまう。
 
 むろん洗脳だとかなんとか、はっきりした意図や目的があるとは思わない。詩自体も日本人らしいいい詩だ。確かに心は反応しあい、共感しあう。
 でも、例えば、ニーチェやワーグナーがナチズムと関連づけて捉えられたりする、そんな関係性が、この金子みすずの詩とこれを選択した者たちの間にも、ありはしないだろうか。


 余談:
 大量オンエアのAC広告と言えば、ウチの父は、仁科親子の乳がん検診のCMを見るたびに、「どっちが娘だ?」っていってた。私たち女性陣は毎度、「見てわかるよ~」っていう。
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by koharu65 | 2011-05-04 10:39 | 雑感