過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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 数日前、テレビを見ていて、あれっと思った。
 情報番組の中で、記者が政局について説明するとき、前置きとして
「減原発の流れはもう決まっているので…。」
と述べたのだ。
 へえ?そうなんだ。減原発がもう規定の路線ならば、私はもう何も言うことはないんだけど…。

 振り返ってみると、菅首相は5月10日に、「従来の計画をいったん白紙に戻して議論する」と述べ、昨年6月に閣議決定された原発への依存が前提となっているエネルギー基本計画を見直す方針を表明している。また太陽光、風力発電などの再生可能エネルギーと省エネ社会実現を2本柱とする意向も示した。

 6月2日には国会に内閣不信任案が提出され、否決された。
 この結果は、“管直人首相が民主党代議士会で自発的な退陣を表明したことを受けて、小沢一郎元代表が「首相から今までなかった発言を引き出したのだから自主判断でいい」と支持派議員に不信任案に賛成しないよう呼びかけたため”(産経ニュース)とされているし、その後、どこのメディアも盛んに、退陣表明をした首相がいつまでもやめないのはおかしい、という論調で押していた。
 しかし、いまだによくわからないのだけれども、私が聞いた限りでは、民主党代議士会での菅さんの演説は、決して退陣表明には聞こえなかった。それどころか全く逆で、自分のやりたいことが達成されるまでは絶対やめませんよ、という強い意志表明だと思った。それなのに、マスコミが直後からこぞって、退陣表明だ、退陣表明だ、と騒ぐのが奇異に感じられて仕方がなかった。

 そして7月13日には、記者会見を開き、「将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と宣言した。(ただし15日の閣僚懇談会で、これは「私個人の考えだ」と説明している。)

 そして、8月26日、菅首相は退陣を正式に表明し、「やるべきことはやった」と述べた。この日、退陣条件としていた再生可能エネルギー固定価格買い取り法と特例公債法が成立している。

 原発事故以降、管首相の脱原発への志向は一貫してはっきりしていて、この流れが決定づけられることこそ、彼の信念であったと思われる。
 とすると、ここまで踏ん張ってきた菅さんがようやく退陣表明したのは、脱(減)原発の流れがある程度方向付けられたからに違いない。

 8月に入って、反原発にしても或いは逆に原発維持、どちらにしても、論争すること自体が下火になっていて、この奇妙な静けさ、沈黙はいったいどういうわけだろう、と不思議に思っていた。私は、もっと盛んに議論してこれからの日本の方向性をはっきりとさせるべきではないか、と憤慨していたのだが、冒頭に書いたような記者の発言を聞いて、天地がひっくりかえったような気がした。事態はいつ間にこんなふうに進んでいたのだろう。
 最近のメディアの沈黙は、反原発論を抑えるためでなく、逆に、せっかく3党が合意したものを寝た子を起こすような論議は避けたいという空気であったのではないか。

 私は菅さんが能力のある政治家だとも、日本のリーダーとしてふさわしい人物だったとも思わない。彼が首相の間、いろんな不都合や不具合が起こっていた。もしかしたらこの時、他の人物が首相だったらいろんな物事がもっとスムーズに動いていたかもしれない。しかし、脱原発への信念は一貫してはっきりしており、その点においては菅首相を高く評価したいと思う。


 私は反原発というのは、方向性や志向性或いは理念の問題だと思っている。未来に向けて敷かれるレールの方角が決まるのならば、それでいい。目指すべき方向がはっきりしていることが肝心だ。
 管さんの後継者として立候補した5人の候補たちのほとんどは、多少の言葉のニュアンスの違いはあるものの、長期的には原発依存から脱却することを目指すが、短期的には安全性を確認しつつ再稼動していく、という考えを示した。29日の代表選の結果、党首に選ばれ、新しい首相の座に就いた野田佳彦氏もこのうちの一人である。
 現在点検中などで停止している原発も安全性がきちんと確認されない限り運転再開に慎重な姿勢を見せた菅さんと比べれば、こういう流れは後退とも言えるかもしれない。しかし一方でより現実的に物事が前へ進むだろう。
 そして、脱原発路線がどんなに後退したとしても、少なくとも、2010年6月に策定されたエネルギー基本計画に記されている2020年までに9基の、2030年までに14基以上の原子力発電所の新増設という目標は完全に過去のものとなった。それどころか、果たして1基だって新増設が可能なものかどうか。福島の事故の記憶がある限り、日本全土津々浦々、原子力発電所を新増設することに地域住民の合意が得られる場所が存在するだろうか。
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by koharu65 | 2011-08-31 23:20 | 雑感
 
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 “どや顔”の百合


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 私 「ねえ、この姿の美しい花の名前、なんていうの?」
 母 「知らない。高原の道の駅で買ったかな。名札を立てといたんだけど、なくなっちゃったみたい。」


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 ブルーベリー。小鳥と競争で食べる。たいてい小鳥が勝つ。季節の終わり頃になると、もう小さくてすっぱい実しかならない。



 さて、大ニュース!なんとミカエルさんを発見!ミカエルさんというのは、毎年5月頃に庭に現れるトノサマガエルの愛称。
 今年はなかなか現れなかったので、鷺除けに庭の池に張った網のせいかもしれないと思っていた。しかし二週間ほど前、目撃情報があった。目撃者によると、前とは違う色だった、とのこと。
 それからしばらくして、私も植木の水遣りの際に遭遇。水をざっとかけたらぴょんと飛び出し、一瞬で草むらの奥に潜っていった。お召し物が違った。前は緑だったのが、今年は茶色だった。土と同じ色なので目立たない。
 その後、2,3度、目撃。一度は池の中にいた。池の傍らのブルーベリーをもいでいたら、ちゃぽんという音が。金魚にしては音が大きすぎる、もしや?と思って覗き込むと、網の隙間から這い出ようとして失敗したミカエルさんが、水面に顔を出していた。おっ、写真、写真、と思って身動きした瞬間、彼は水の中に潜ってしまった。しばらく水面を見つめて待ったが、出てこない。
 カエルっていうのは、水の中で息ができるんだっけ?
 あ、両生類だ…。じゃあ、待ってても無駄か。

 以前のミカエルさんは、植木鉢の中などでのん気に座っていたり、私が見つめても池の水面に顔をだしてじっとしていたりしたのに、今年のミカエルさんは、どうやら臆病な性格のようだ。写真を撮る隙を与えてくれない。
 というわけで、残念ながら、写真はない。
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by koharu65 | 2011-08-27 22:22 | 鳥、蛙、魚、犬、猫
 先日書いたフジテレビへのデモの話を知り合いにしたら、「あれは、フジテレビに思惑がある組織が仕組んだものじゃないの?」と一笑に付されてしまった。
 むむ…、そうなのか…。

 世の中の事件というのは表向きにはわからないことが多くて、いろいろ考えても結局間違った解釈をしてしまうことが多々ある。

 原発の問題にしても、今の日本の豊かさを支えているのは原発のおかげだ、とか、なんといっても原発以外の効率的なエネルギーは存在しない、とか、言われてしまうと、それはそうだよね、と否定できないので、しかたがないか、という方向にふらふらと傾いてしまいそうになる。日和りたくなる。(“ひよる”という言葉は、今では死語だろうか?)
 
 原発がいかに効率のいいエネルギーであるかということはすごくよくわかる。効率がよいというのは少ない労力で大きな成果が得られることなんだけれども、核の爆発的な威力を想像すると、まさにそれが圧倒的な効率の良さというものなのだなぁと思う。
 だけど、やっぱり私は感覚的に、そういう圧倒的な力が怖い。人間が完全にコントロールしきれない力を、コントロールできるかのように扱うのは間違っているような気がする。
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by koharu65 | 2011-08-26 21:28 | 雑感

デモ(補足)

 昨日書いたフジテレビへの抗議のデモについて、ちょっと補足しておきたい。
 昨日、私は韓流が作られた流行だというような意味のことを書いたけれど、実際に韓国から発信されるドラマや音楽に魅力があることは確かだと思う。もし誰もそれに魅力を感じないのであれば、視聴率も取れない。低予算でかつ視聴率が取れるからこそ、テレビ局も飛びつくのである。
 小学生の姪っ子は、KARAや少女時代に夢中である。踊りや歌を一所懸命練習している。AKB48には全然興味がないみたいだ。母の友人には韓流ドラマファンが少なからずいる。それが理由で韓国旅行にも出かける。
 一時に比べればその人気は衰えているようだけれども、まだまだ根強いファンがいて視聴率やCDの売上を支えている。一方そういう潮流に対してうんざりしたりイラつく人達がいて、しかしもし今の日本に豊かで充実した文化があるのなら、例え一部の人たちの間で韓流がもてはやされたとしても、それほど癇に障りはしないんじゃないか。対抗する日本の文化が脆弱化しているから、見過ごす余裕がない。骨太のドラマやちゃんとした音楽に対する欲求を満たしてくれる自前の受け皿がないから、欲求不満が高まる。
 誰だったか、お笑い芸人が「見たくなければ、見なければいい」と言ったそうだ。しかし、見たくないなら他に何を見ればいいのか、見るべき価値のあるものが見出せない、からっぽだ、大衆文化が脆弱化している、というところに問題がある。これは、日本全体として自国の文化を見直さなければならない、個人の選択や趣味として放っては置かれない問題だと思う。
 
 ちょっと話は飛ぶけれど、中国の高速鉄道のアメリカでの特許申請に対して過剰に反応したり、多くの人命が失われた事故に対して、やっぱり、といった風な反応を見せたりするのも、日本の自信のなさや不安の裏返しの表現であるように思う。
 今までずっと日本が追求してきた豊かな社会というのは、基本的に物質的豊かさを求めるものであった。ヒステリックな反応は、私には、震災や原発事故によって、経済の基盤や世界の最先端技術を担うという自負が崩れていく不安から逃れようとしている表れであるかのように見える。

 そこでもう一度、前の記事の最後に戻ると、こういう時に、失われていくプライドや不安を埋める精神的支柱を求めて、愛国主義だとか排外主義が台頭する隙ができることを私は危惧する。


 
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by koharu65 | 2011-08-24 22:23 | 雑感

デモ

 数日前まで厳しい暑さが続きバテ気味だったので、じっくりと何か書くことができなかった。ここ2,3日は、突然の秋の訪れかと見紛う涼しい日がやってきて、過ごしやすく、空気が気持ちよくて、パソコンに向かう気になどなれない。
 どうやら、外的要因は、書く気になるかどうかの内的欲求とはあんまり関係がないらしい。
 寝室には、図書館から借りた本や本屋で買ってきた本が5,6冊、表紙を開かれもせずに、積まれたままになっている。

 そんなふうな状況なのだけれども、今日、興味深いニュースを目にしたので、久しぶりに書きたくなった。簡単に。

 昨日、22日、フジテレビ前で、フジテレビの韓流偏重の番組作りに対する抗議のデモがあったそうだ。抗議の内容が正当なものかどうか、私には判断する材料がないので、内容については論じない。
 ただ、どうしてこういう動きが生じたのか、とても奇妙に感じたし、興味を持った。大手の新聞やテレビ局が総じてこれを取り上げていないのも、不思議に思った。反原発デモに対する対応と似ているような気がする。
 
 原発事故以来、国民の間で、既存の権力や勢力、組織に対する不信感が広まっているのではないかと思う。政府に対する不信感は明らかすぎて言うまでもないが、事故後、政府から与えられた情報をただ流すだけの提灯持ちのマスコミに対する不信や不満もふつふつと溜まっているのではないかと思う。
 マスコミュニケーションの本来の意味は「大衆の情報伝達」である。けれど、今のマスコミがこの本来の意味の大衆の情報伝達手段としての役割を果たしているのかどうか。それを考えると、テレビ局が実際に大衆の間から自然発生的に起こる流行ではなく、自らの利益のために流行を作りあげていることに対する憤りや反感、という今回のデモの動機となる感情には共感できるものがある。(実際にそういうことがあるのかどうかは証明されていないけれども、うわさが真実味を帯びるのは、やはりテレビ局に対する大きな不信感が根底にあるのだと思う。)
 
 ネットの呼びかけから現実の行為へと広がるこのような動きを(その主張や行動が正しいかどうかは別にして)、既存の大手メディアは黙殺する。その主張が正しいか間違っているのか、公に知らしめて俎上に乗せることをしようとしない。自社の利益という経済的な論理を基礎として、大衆の欲望を操作できるのだというメディア(特にテレビ)の驕り。大衆(おそらくその多くは若者)の声が反映されるのはネット上だが、それはなかなか現実に反映されない。
 メディアがメディアとしての役割を果たそうとしない、そのことに対する怒りが、今回のデモの根源にあるような気がしてならない。

 私は、デモを起こす大本の感情はそこにあると思うし、その感情自体は真っ当なものだと思うのだけれども、一方で、そういう社会に対する本来は真っ当な怒りやエネルギーが別の方向に誘導されたり利用されたりすることを危惧する。
 韓流ドラマやK-POPへの偏重に対する憤りはひとつの具体的な事象であって、本当は民衆の声を拾わないメディア、文化を育成したり創造したりする力のないメディア界に対する不満や反感が元になっていると、私は思う。
 しかし、社会への不満や反感が、公の目に晒さらされず客観的に議論されることもなく閉鎖的な場だけで熟成されるならば、マグマのように溜まる感情は受け皿を求めて流れ出す。例えば、愛国主義だとか排外主義だとか、言われるものに。
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by koharu65 | 2011-08-23 22:11 | 雑感

僕らの領分

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<僕らの領分>



 
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by koharu65 | 2011-08-19 22:21 | 雑感

自家製花札

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<萩に猪>


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<百合に犬>


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<芒に月>


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<犬に月>

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by koharu65 | 2011-08-18 22:46 | 雑感
 12日の朝日新聞に、『情報統制 不安は「悪い真実」より性悪だ』という見出しの記事があった。筆者は一橋大商学部長の沼上幹という方。

 記事の主旨は、政府や企業などの組織のトップが行う情報統制は組織の経営にとってマイナスになる、というものだ。
 企業或いは政府が公式に正しい情報を提供しないと、人々は勝手に不正確な憶測や虚構やうわさを作り上げ、コミュニケーションが活発化し、混乱が高まる。
 「どうなっているのか分からない不安」は、「相当悪い真実」よりもかえって性悪である。「社内を騒然とさせないように」と思った一手が、かえって社内を混乱に落としいれ、加速度的に業績が悪化していく。

 さて、要約だけを読んだ人は、この記事が具体的に何の事故、事件に関して論じられたものだと思うだろうか?
 実は、この記事は冒頭、次のような形で始まっている。
 中国の高速鉄道事故の後処理には、組織の問題を考えるポイントが多く含まれている。中でも、組織論の立場から最も注目されるのは、政府による情報統制である。

 これをそのまま、「日本の原発事故」と置き換えて、全く同じ論を展開しても違和感なく通用するのではないかと思った。
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by koharu65 | 2011-08-15 21:02 | 雑感

反原発ソング

 先日、友人から教えられて、制服向上委員会という女子中高生(?)アイドルグループが歌う『ダッ!ダッ!脱・原発の歌』を聞いてみた。
 明るくさわやかに一所懸命歌う可愛らしい少女たちには申し訳ないのだけれど、メロディーも歌詞も私の胸には響かない。単純な言葉は単純な思考しか生み出さない。なぞるだけの単純な思考は簡単にひっくりかえる。
 “脱原発”とタイトルに掲げさえすれば、流行には乗れるのかもしれない。このグループが歌うもう一つの原発関係の歌、『原発さえなければ』には、さらにぞっとした。因果関係を直截的に結びつけ、思考を単純化するその言葉の使い方に恐ろしさを感じる。
原発さえなければ 不安な日々は生まれなかった
原発さえなければ 悲しみや怒りは生まれなかった

原発さえなければ 何でも信じること出来た
原発事故さえなければ こんなに悲しい事は起きなかった
 原発さえなければ、人々は幸福でいられたのだろうか?原発事故さえなければ、人々は昨日と同じでいられたのだろうか?原発さえなければ、何でも信じることが出来たって、本当?何もかもがただ原発のせい?
…それとも、もしかして、これは意図されたブラックユーモアだという可能性もなきにしもあらずなのかな?


 そこで、胸に響く歌を紹介。

 『LOVE ME TENDER』- RCサクセション(忌野清志郎)

 優れた曲と、歌唱力と、自分の言葉と、それから心からの叫びと。




 <追記8/11>
 
 動画、差し替えました。サマータイムブルースよりもラブミーテンダーの方が好きだということと、歌詞が載っている動画があったのとで。
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by koharu65 | 2011-08-10 23:51 | 音楽
 『デボラの世界』ハナ・グリーン著(みすず書房)。
 ここ数年読んだ本の中で一番心を動かされた。

 十六歳の少女の、三年間にわたる精神病院での生活と、狂気から現実への旅路をえがいた小説(単行本裏表紙の紹介より)である。

 ほとんど徹夜で一気に読みきった。デボラは果たして現実を取り戻すことができるのか、祈るような気持ちで読み進めた。
 これは小説ではあるが、精神病理学の知見をふまえて分裂病という病気の構造が正確に描かれ、かつ患者本人の視点から彼女の内部に起きている出来事が語られているので、患者を外側から観察する医学書よりずっと生き生きと人間の精神の実態を伝えていると思う。
 デボラが現実に戻るための戦いを手助けする精神科医が登場するが、実在の精神科医フリーダ・フロム=ライヒマンをモデルにしたと言われている。

 現実の世界はデボラにとって、彼女の自由な精神を絶え間なく圧迫し、静かな死へと導く冥土の世界であった。その中でデボラは自分を守るために、自分だけの精神世界を作り出していく。作り上げた、始めは美しかったその想像の世界にすがることでしか彼女は自分を守ることができなかった。そして、その想像の世界は次第に彼女の現実を侵食し、混乱を引き起こすようになる。彼女は現実から乖離し、実際上の生活を営むことが困難になり、ついには自殺未遂を起こす。
 しかし、この行為こそ実は、“生きたい”という彼女のサインであった。両親は自分の娘が普通と違うことを認めたくないために、精神病院へ入院させることを躊躇するのだが、デボラにとって自分の病気は一番身近で明白な現実であるのに、それすら否定される、信じてはいけないと言われる、そのこと自体が彼女にとって行き場を失う耐えられない現実でもあった。
 デボラは健康的な生を渇望していたがゆえに、サインを出した。普通に現実を生きることのできない病気の自分を治したいのだと。
 
 現実に戻るためのデボラの戦いは困難を極める。優秀な精神科医の助けがあり、しかも生への希望を失っていない十六歳という若い少女であっても、現実を手に入れることがこれほど大きな努力を必要とする長い戦いであることを知ると、私たちがこうして現実を普通に生きていること自体が、実は奇跡的なことなのではないかと思えてしまう。

 精神科医とデボラの母親の間で次のような会話が交わされる。
 「…以前に知っていた患者さんで、ありとあらゆる恐ろしい方法で自分をいじめていた人があります。なぜそんなことをするのか、と聞きましたら、『世間がする前に、やるんだ』と言うのです。そこで『世間が本当にやるかどうか待ってみたらどう?』とききますと、『でも結局はそうなるんだ。だから、まず自分からすれば、その時には少なくとも私は自分の自己破壊については主人なのだ』と言うのです。」
 「その方は……よくなられましたか?」
 「よくなられましたよ。でもあとでナチスにつかまってダハウにおくりこまれ、そこで亡くなりました。おくさま、私がわざわざこの話を申しあげるのは、あなたがどれほど努力されても、最愛のお嬢さんを世間から保護しきることはできない、ということを、おわかりいただきたいからです。…(略)」
……(略)……
 「愛だけでは足りませんのね。…(略)…私たちはデボラを愛していたのですが……それでも愛だけでは……この……病気を……防ぐことはできなかったのですね……」

 デボラが必要としていたもの、そして学ばなければならなかったのは、おそらく、自分自身で現実の困難に立ち向かう力や方法を養うことであったのだと思う。

 次の引用は、デボラと精神科医の会話。
 「たやすいなどと言ったことがあったかしら?あなたがご自分で望まない限り、だれもあなたをよくすることはできないし、そのつもりもありませんよ。あなたが力と忍耐の限りを尽くして戦うのなら、ごいっしょに何とかできると思うけれど」
 「もし私がしなかったら?」
 「そうね、精神病院はいくらでもあって、毎日せっせと新築してるわ」
 「では、戦うとしたら、何をめざして?」
 「うまい話はないって、去年もおととしも申し上げたでしょう?自分にむかって挑戦するため、自分の誤りを認め、その罰を引きうけるため、愛と健康を自分自身で定義づけるため、人生を生き始めることのできるりっぱな強い自分を築くためよ」

 デボラには誤りを認め現実に向き合うことのできる強い母親がいて、デボラ自身の努力を手助けしてくれる経験豊富な医者がいた。しかし、現実の社会には、再生の機会に恵まれないまま闇に落ちていった少年少女が数多くいるだろう。


 この本は始め図書館で借りて読んだので、手元に置いておきたいと思ったら、絶版になっていた。それでアマゾンで中古本を購入した。こういう良書が絶版だとは不思議なことだ。

 余談。精神病院の中の様子を読んでいて、『カッコーの巣の上で』という映画を思い出した。『カッコーの巣の上で』は原作が1962年の小説で、『デボラの世界』の原著は1964年の発行だった。この時代、アメリカでこういうテーマが流行ったのだろうか。


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(追記)

 私が書いた感想より、ずっと上手くこの本を紹介してあるブログの記事を見つけたので、下記、リンクを貼って紹介します。本全体の魅力がきちんと伝わってくる感想です。特に、デボラの狂気の世界が「美しい」世界であったということや、精神病院の中の他の人々の魅力もこの小説の要だということを、私は書いていませんでした。

  ブログ: 『月夜に散歩』

 
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by koharu65 | 2011-08-08 22:16 | 本・小説・映画