過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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 最近、夏目漱石の『吾輩は猫である』を読み直してみた。昔読んだはずなのに、内容を全然覚えていないことに気付く。そして、こんなに面白いものだったのか、と驚く。風刺とユーモアと哲学と。
 後半になるに従って猫の影が薄くなり、寒月と迷亭と独仙と苦沙弥、この四人の会話が中心になると、更に興が増し、哲学問答のようなやり取りの一句一句に夢中になった。しかし、おもしろい、おもしろい、と読み進めていたら、最後、酔っ払って甕に落ちた猫の描写にふいに足元をすくわれたような感じがして、ぞっとした。四賢人とともに言葉を弄んでいたら、急に自分も甕の中に落とされて、どうあがいても縁に手が届かない。まるで、どう言葉を弄そうとも、結局は自己が作り出す観念の外に出ることができず、もがき苦しむ人間のようで。

 
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by koharu65 | 2012-03-27 20:32 | 本・小説・映画

意味するもの

 3月20日の日経新聞に、“中国の政変が意味するもの”というタイトルで、薄煕来・重慶市共産党委員会書記の解任劇を解説する囲み記事があった。

 まず、記事はこの解任劇を“1989年以来の最大の政変”と位置付けている。
 薄氏は現在9人いる中国の最高指導部入りを目指して活動してきたが、これによって挫折した。このこと自体は歓迎されている。なぜなら、彼は“統治方法のヒントを中国の最近の歴史の最悪の部分、特に文化大革命に求めた” 保守派(左派)だからである。“警告した温氏(温家宝首相)は正しかった”と評価する。しかしそれだけではない。
 

 薄氏解任で、不透明な選任プロセスでも不適切な候補者が排除されると確認されたとも主張できよう。だがそれはあまりに好意的過ぎる。後任が江沢民全国家主席の派閥から来たことは、江氏と結ぶ保守派と、胡氏や温氏に連なる自由主義的な共産党員との抗争が今も激しいことを示す。


 記事は、薄氏を最高指導部入りするには“不適切な候補者”だと断じ、胡氏や温氏に連なる自由主義的な共産党員が今後主導権を取ることが望ましいことを暗示している。しかし、保守派と自由主義的な一派との抗争は未だ激しく、予断を許さない。
 そして続いて “民主化推進や格差是正を訴える温氏の発言は魅力的だが、”実際に実行できるかどうかは疑わしい、と述べ、以下、民主化に向けた実行すべき具体的な措置の例を挙げている。人権活動家の解放や、村・群レベルでの民主化、汚職の取り締まり、消費者の保護など。しかしこれらの


ほとんどは実現の見込みが極めて低い。共産党はこうした措置が党崩壊につながりかねないと恐れる。だが中枢部の矛盾は、長期的には持続不可能で永遠には隠せない。これが先週の政変が真に意味することだ。


 政治的にでも社会的にでも、何か大きな事件が起こったとき、私は、それがいったいどういう意味を持つか、ということを知りたいと思う。ところが日本の新聞を読んでいても、なかなかそういうことがわからない。
 この記事はわかりやすく解説してあると感心していたら、記事の最後に、“(19日付社説)=英フィナンシャル・タイムズ特約”とあった。
 2日後の朝日新聞のこの事件に関する記事では、“「政争か」飛び交う憶測”と、今更の小見出しがつけられ、些末な経緯をぐだぐだと取り上げていた。

 むろん、英フィナンシャル・タイムズ紙が社説に書いた事件の意味は、中国に民主化を求めるイギリスという、ある特定の角度から見たものであって、中国から或いは日本から見た事件の意味は、イギリスと全く同じになると限らない。
 ある事柄が自分にとってどういう意味を持つかを明らかにすることは、自分の立場を明らかにすることである。事件が日本にとってどういう意味を持つのか、日本はいったいどういう立場に立って世界の出来事を分析し、解釈し、意味づけ、外に向けてメッセージを発信していくべきなのか、新聞や雑誌を読んでもそれがなかなか見えてこないことにもどかしさを感じることが多い。
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by koharu65 | 2012-03-25 16:01 | 中国・中国語

花束の季節

 二人の姪と一人の甥が先日、それぞれ卒業を迎えた。小学6年生の姪は卒業式の日に山ほどの花束を我が家に持ち込んだ。私はあいにく留守をしていて、帰ってきて家中の花瓶に満載の花を見て、びっくり。
「え~、そんなたくさんの花束、誰からもらうの?」
「下級生がくれるんだって。チューリップを一本だけくれた子もいて、それくらいがちょうどいいのにね。子どもなんだから。」
 何ももらえない子もいるのかな。さびしかないかな。

 中学生の甥も花束を一束持って、それから制服のボタンをひとつ欠けさせて、帰ってきた。
 こちらの卒業式の様子もおもしろい。男子は20人ほどの一群が羽織袴で、その中にピンクの羽織が一名。私の甥も袴が穿きたいと言ったそうだが、母親が反対したようだ。女子はほとんどが袴。振袖が二名。一人だけスーツの子がいて、妹によると、その子が一番かっこよかった、とのこと。そして、ひとり、ゴスロリ(ゴシックロリータファッション)の子がいたそうだ。
 我が家の誰もが、学生はやっぱ学生服(学生らしい服)でしょ、という意見で、私も、お祭りじゃないんだから、という点では同感なんだけれど、実は私はひそかにゴスロリのファンなので、頭にちょこんと小さな帽子を乗せていたというその女の子を見たかったなぁ、と思ったのでした。

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by koharu65 | 2012-03-23 20:43 | 花の写真
 村上春樹のエッセイ集、『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』(マガジンハウス/2011年)を読んだ。雑誌アンアンに連載されていたエッセイをまとめたもので、一回分が3ページしかなく、ちょっとした時間にちょっとずつ読める。
 最近布団に入るとすぐに眠くなってしまって、長い小説などは前後に行ったり来たりしてなかなか結末までたどり着けないのだけれども、この本はそういう時にちょっとずつ読むのにとても適している。

 この本の中で、村上春樹は、エッセイを書くに際しての3つの原則を挙げている。人の悪口を具体的に書かないこと、言い訳や自慢をなるべく書かないようにすること、時事的な話題は避けること。しかし、この3つの条件をクリアしようとすると、話題は限りなく「どうでもいいような話」に近づいていくのだと言う。

…僕は個人的には「どうでもいいような話」がわりに好きなので、それはそれでかまわないんだけど、ときどき「お前のエッセイには何のメッセージもない。ふにゃふにゃしていて、思想性がなく、紙の無駄づかいだ」みたいな批判を世間で受けることがあって、そう言われると「ほんとうにそうだよな」と思うし、また反省もする。…


 と、作家本人はそう書いているが、「どうでもいいような話」の連載をこうしてまとめて読んでみると、そこにはやっぱり何かしら一貫したメッセージが感じられる。それぞれの人間は、それぞれの「どうでもいいような」日常を、それぞれ大切にしながら生きているのだ、ということが、伝わってくる。

 本のタイトルの『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』は、エッセイの中の「おおきなかぶ」という話と「アボガドはむずかしい」という話、ふたつの題名をならべたもので、前者は有名なロシア民話を題材とした話、後者は熟したアボガドを見分けるのはむずかしいという話で、それぞれの個別で具体的な話には何ら特別なところがない、つまり「どうでもいいような話」にもかかわらず、そのふたつを『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』と並べると、そこに不思議な空間が現れる。「おおきいかぶ」と「むずかしいアボガド」という尺度の違う比べようのないものを並列に置くことによって、相関性のないふたつの世界が同時に成立する空間を作りだしている。
 小説を通して世界に向けられた村上春樹のメッセージが、エッセイでもまた同じように世界に向けて語られている。

 夜ごと読むたびにページ数が残り少なくなっていくのが惜しいと思う珠玉のエッセイ集であった。
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by koharu65 | 2012-03-18 20:46 | 本・小説・映画

中国映画『鬼が来た!』

 少し前に、『譲子弾飛(弾丸を飛ばせ)』という中国映画の感想を書き、その際最後の方で、同じ監督の『鬼子来了(鬼が来た)』という映画に少し触れた。
 (以前の記事:http://koharu65.exblog.jp/17547247/
 これは2000年公開の中国映画で、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞した作品である。監督は姜文。

 舞台は1945年、終戦間近の中国大陸。素朴で善良な人々が住むある小さな村に、闇にまぎれて現れた男が、ひとりの日本兵の捕虜を、数日という約束で村人に預ける。ところが約束の日を過ぎても男は戻らず、村人たちは捕虜の扱いに困ってしまう。
 自分たちの食料すらおぼつかない中、やっかい者でしかない捕虜を殺すか殺さざるべきか。村人たちは何日も侃々諤々の議論を交わす。日常生活を営む中で、目の前の一人の人間を殺すことがどんなに困難なことであるか。村人と日本人捕虜とのユーモアたっぷりの奇妙なやり取りがしばらく続く。
 ところが、日本軍の部隊の隊長が舞台に現れると、この友情物語はたちまち殺戮の場面へと変容する。
 そして終戦後、支配層が国民党に取って代わられると、その国民党のリーダーの命令によって、公開処刑が行われる。首を切られるのは、日本の部隊に虐殺された村人の生き残り。男は復讐に駆られ、国民党に捕らわれた日本兵の捕虜を次々と切り殺し、捕虜を殺した罪で公開処刑されるのだった。
 日本軍を駆逐した中国の部隊を必ずしもヒーローとして描いていないところからして、この映画は確かに単純な反日映画ではない。「鬼」というのも、日本人だけを指しているのではない。おそらく「鬼」というのは、日常生活で人間と人間との間に自然に醸し出される情を踏みにじるような非人間的な存在を象徴しているのだと思う。
 ラスト近く、公開処刑の場面では、同胞の首が切られるというのに、見物に集まった中国人たちの好奇心いっぱいの、にやにやした顔が映し出される。ここで私は魯迅を思い浮かべた。これは100年も昔に魯迅が指摘した人間の愚かさではなかったか。魯迅はペンをもって愚かな人間の精神を変容せんとした。この映画には魯迅ほどの切実な思いが込められているだろうか。

 
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by koharu65 | 2012-03-16 23:15 | 本・小説・映画

福寿草

 東日本大震災から丸1年が経ち、ここ数日、新聞やテレビで特集が多く組まれている。大切な身内を失った人々の声に触れ、そのたびに辛い気持ちになる。何をどう言っても慰めにはならないのだろうと思うし、時が解決するのかどうかもわからない。喪失感は、もしかしたら、時が経てば経つほど増大し鮮明になるのかもしれないし。

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 以下、3月の写真。

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 先日、母が植木鉢の福寿草を買ってきた。

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 これは玄関の下駄箱の上に飾られたお雛様たち。
 私が子どもの頃、我が家での雛祭りは木で組んだ7段の段々に赤い毛氈を敷いて、一番上にお内裏様がいるけれど、その下には、もらい物やお祝い品のガラスケースに入れられた雑多な人形たちが飾られていた。藤娘や博多人形、市松人形など。
 木で段々を組み立てるだけでも大変な作業なので、私たちが大きくなるに従って、いつしか飾るのをやめてしまった。

 
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by koharu65 | 2012-03-10 16:05 | 雑感

きわめて要領の悪い虐殺

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』にこんな話が出てくる。(小説の中のお話なので、もちろんフィクションです。)
 戦時中、中国大陸の新京動物園にて、戦局が厳しくなる中、猛獣の処分を命令された日本人の中尉が、兵隊たちを引き連れて動物園へやってきた。しかし薬殺用の薬もないまま、彼らは動物たちをどう殺したらいいかわからず、四苦八苦しながら、かなり手際の悪いやり方でやっと処分を終える。
 ひと息ついた日本人の獣医に向かって、中国人の雑役夫が、こう言います。

 彼らは獣医に言った。先生、もし死体をそっくり全部譲ってくれるなら、我々があと始末をいっさいひきうけてあげよう。…(略)…今となってはもう遅いけど、ほんとうは頭だけを狙って撃ってほしかったよ。そうすれば毛皮もいい値段がついたのにね。これじゃまったく素人の仕事だ。はじめから俺たちにまかせてくれれば、もっと要領よく始末してあげたのにさ。獣医は結局その取引に同意した。任せる以外にあるまい。なんといってもここは彼らの国なのだ。
 やがて十人ばかりの中国人たちが空の荷車をいくつか引いて現れ、倉庫から動物たちの死体をひきずりだしてそこに積みこみ、縄でくくり、上からむしろで覆いをかけた。そのあいだ中国人たちはほとんど口をきかなかった。表情ひとつ変えなかった。積み込みが終わると、彼らは荷車を引いていずこへともなく去っていった。動物たちの重みで、古い荷車はあえぐような鈍い軋みを立てた。それがその暑い午後におこなわれた動物たちの――中国人たちに言わせればきわめて要領の悪い――虐殺の終わりだった。…
 

 “きわめて要領の悪い虐殺”の終わりに困惑を感じる日本人獣医と、てきぱきと要領よく黙々と現実を処理していく中国人、この場面が強烈に印象に残っています。
 そして、この話に象徴されるような中国的気質、逆から言えば日本人の弱点というのが、私が中国に(中国人に)魅かれる原因のひとつなのかもしれない。
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by koharu65 | 2012-03-01 23:39 | 雑感