過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

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 前回の記事にいただいたコメントへの返事に、私は次のように書いた。

私は、村上春樹は作家として「すごい」と思うけれど、好き嫌いで言ったら、あまり好きじゃないのですよね。人生観が違うのかも。


 好きじゃない理由として「人生観が違う」と書いたけれど、これはあまり正確ではないような気がする。どうして私は村上春樹に強烈な親近感や共感を覚えないのだろう?

 それが最近、内田樹の『もういちど村上春樹にご用心』という本を読んでいて(まだ全部読み終わっていないのだけれど)、この本によって先の疑問が少し解け始めた。

 内田樹という人は、大学の文学部の教授を最近退職した人で、ブログや新聞、雑誌、書籍上で、社会・教育・文化・政治などの様々なテーマを論じ、人気を博している。そして彼は、村上春樹の熱烈なファンだということを公言している。

内田さんは、この本の最初のほうで「村上春樹は世界中の人の心の琴線に触れるんだ」という言い方をなさってますが、アメリカ人やイギリス人と話していても、やはり「なぜ世界中でこんなに人気があるんだ?」って話題は出るわけですね。そうすると彼らは、「ハルキはなんらかの形で“ヒット・ザ・ナーヴhit the nerve”する」っていうんです。「神経を打つんだ」って。
(『もういちど村上春樹にご用心』柴田元幸との対談より)


 村上春樹の小説は、世界中の人々の心を打つらしい。なのになぜ私の心の琴線には触れないのだろう?それどころか、私は彼の小説を読むのがとっても「しんどい」んである。

 内田樹は村上春樹の作品を、次のように分析する。

 
村上春樹が世界的なポピュラリティを獲得したのは、その作品に「世界性」があるからである。
 …
 では、その「世界性」は何かということになると、これについて私はまだ納得のいく説明を聞いたことがない。そこで私の説を語る。
 村上文学には「父」が登場しない。だから、村上文学は世界的になった。
…(略)…
「父」とは「聖なる天蓋」のことである。
その社会の秩序の保証人であり、その社会の成員たち個々の自由を制限する「自己実現の妨害者」であり、世界の構造と人々の宿命を熟知しており、世界を享受している存在。それが「父」である。
 「父」は様々な様態を取る。「神」と呼ばれることもあるし、「預言者」と呼ばれることもあるし、「王」と呼ばれることもあるし、「資本主義経済体制」とか「父権制」とか「革命的前衛党」と呼ばれることもある。世界のすべての社会集団はそれぞれ固有の「父」を有している。

 村上春樹は、そういうローカルな世界ごとに異なる様相で現れる「父」を描かない、つまり父の不在を明らかにすることによって、村上春樹の作品は世界性を獲得したのだ、と内田樹は語る。

 人間は“「父」抜きでは、私がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、どこに向かっているかを俯瞰的、一望俯瞰的な視座から「マップ」すること”はできない。“地図がなければ、私たちは進むことも退くことも座り込むことも何も決定できない。”
 ところが、村上春樹は“地図がなくてもなんとかなるんじゃないか”と考えているまれな人々の中のひとりなのだ、と言う。

 
村上春樹は、この地図もなく、自分の位置を知る手がかりの何もない場所に放置された「私」が、それでも当面の目的地を決定して歩き始め、偶然に拾い上げた道具を苦労して使い回しながら、出会った人々から自分の現在位置と役割について最大限の情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。その歩みは物語の最後までたどりついても、足跡を残したごく狭いエリアについての「手書き地図」のようなものを作り上げるだけで終わる。
…(略)…
「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」
 これが村上文学に伏流する「問い」である。


 引用が長くなったが、この本を読んでようやく、なぜ私は村上春樹の作品を読むとき「しんどい」と感じるのか、なぜ私は村上作品をあまり好まないのか、少しわかったような気がした。
 きっと私は父の不在に耐えられないのだ。私はこの世界に枠を与える何かを欲している。何もない状態から、手書きの地図を作っていく作業の「しんどさ」に耐えられないのだと思う。


 村上春樹の解説本として、お薦めの一冊です。引用部分だけではわかりにくいと思いますので、興味のある方はぜひお買い求めください。
 amazon 『もういちど村上春樹にご用心』内田樹著



小春日和日記もよろしく



 
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by koharu65 | 2012-06-25 22:56 | 本・小説・映画
 防衛大学の開校祭で、毎年、棒倒しという競技が行われているそうだ。
 参考(ウィキペディア):
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%92%E5%80%92%E3%81%97#.E9.98.B2.E8.A1.9B.E5.A4.A7.E5.AD.A6.E6.A0.A1.E3.81.AE.E6.A3.92.E5.80.92.E3.81.97



 youtubeで見たのだけれど、これがすごく面白い。
 まさに肉弾戦。体と体のぶつかりあい。迫力満点で、見ていると自然と血沸き肉躍り、力がみなぎる興奮を味わうことができる。
 そして、ただ肉体の戦いというだけでなく、上の動画のように作戦が図に当たり味方同士の連携がスムーズにいく光景は、芸術的に美しい。
 この防衛大の棒倒しには、“死ぬ気で戦う”という激しさがある一方で、本当の危険を避けるためのいくつかのルールがちゃんと考えられているようだ。(例えば、空手道部やボクシング部の部員は参加できないとか。)
 それから、これは普段ちゃんと肉体的な訓練をしている人たちだからこそ、安全性が確保されるのだと思う。技術的な指導や訓練を前提とした上で成り立つ競技ではないかな。

 で、話がいきなり飛躍するようだけれども、これを見て思ったのは、コントロールされて技術的に研ぎ澄まされた力は、必ずしも野蛮ではない、ということ。
 無目的に増幅した負の感情に支配された暴力は恐ろしい。戦後日本人は、そういう暗い感情に支配された暴走する力を恐れるあまり、力の存在そのものをあってはならないものとして否定する傾向があるように思う。力を理性によってコントロールする手段や技術を学ぶことを怠ってきたのではないか、と思う。

 ついでに、さらに飛躍した話を。
 村上春樹の小説の男性の主人公は、いつも優しくて人を傷つけないタイプなので、一見彼の小説はやわらかで軽やかで、癒し的なイメージがある。でも、実はすごく怖いものを抱えてるんじゃないかと、私は思う。(だから、実をいうと、あまり好きではない。)
 『1Q84』に青豆さんというヒロインが登場するが、彼女は“強固な信念”のもとに、研ぎ澄まされた技術で人を殺す。
 ならば、村上春樹は、悪い奴を抹殺するという正しい目的のためなら、人を殺してもいい、と言ってるのだろうか?自分の強固な信念を正しいと信じて敵を討つ例は古今東西、数多くある。
 しかし、一方で、『1Q84』では、人を殺すことによって自分自身の心も削られていく青豆さんの張りつめたような危うい生き方も描いている。決して青豆さんの生き方が賛美されているわけではない。
 彼の小説は、実際にはあり得ない想像の世界の物語だけれど、その中に生きている人々は私たちの実際の世界をリアルに投影した問題意識を抱えているように思う。
 『1Q84』の登場人物たちは、強い者も弱い者も共に精神の底に暗いものを抱え込み、暴力を振るう者も振るわれる者も共に何か抵抗できない大きな流れに飲み込まれ、その生を損ねている。そんなふうに思う。
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by koharu65 | 2012-06-16 17:12 | 本・小説・映画

少女

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 何にでも興味があって、きらきらと目を輝かせ飛びついていた姪っ子は、個性的なゆえに周りの女の子に自分を合わせることができず浮いてしまうと、母親が嘆いていた。私はそういう性質こそ大事にすべきなのに、と思うのだけれど、友達との関係がすべてである学校生活において仲間外れになるのは、とてもつらいことだということもよくわかる。
 そういう姪っ子が、だんだんと以前ほど、しゃべらなくなり、中学生になったらすっかりおとなしく、しとやかに、でしゃばらなくなったので、彼女の個性は世間並みに矯正されてしまったのかと、少し寂しく思っていた。

 先週の日曜日、久しぶりに彼女と犬と私とで、散歩に出た。
 河原に着き、きらきら光る水を見た途端、彼女は、
「気持ちよさそう。入りたい!靴脱いで、入っていい?」
と私に聞く。
「うーん、タオルとか持ってきてたらよかったんだけど。濡れたら拭くものがないし。」
彼女は、ちょっと黙って考えた後に、言った。
「この石のところに足を乗っけてれば、すぐ乾くと思うよ。」
「うん、そうだね。うん、わかった。いいよ。」
彼女は、さっそく靴と靴下を脱いで、ぱちゃぱちゃと水の中を歩いた。ごつごつした河原の石の上を転ばないよう注意深くゆっくりと渡る彼女の周りを、犬が大喜びで、くるくると行きつ戻りつする。
しばらくして戻ってきた彼女と私は、突堤に腰かけて景色を眺める。
「すごく、気持ちいいね。こういうの大好き。」
と、彼女が静かに言う。
「見て。あの辺、泥だよ。裸足で歩いたら気持ちよさそう。いい?」
「泥かぁ。汚れるよねぇ。まあ、いっか。乾いたら落ちるよね。いいよ。」
 彼女は再び水の中に降り、泥の上を歩きながら、振り返って私を見た。
「おもしろい!気持ちいいよ!」

 彼女の性質はちっとも変ってないのだと、私はうれしくなった。
 彼女の言うとおり、濡れた足は石の上で乾かしたら、何のことなくすぐに乾いた。


*小春日和日記もよろしく。



 
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by koharu65 | 2012-06-09 21:57 | 雑感
 毎年5月半ばを過ぎると、そろそろミカエルさん(我が家の庭に住むトノサマガエル)が現れるのではないかと気にかけるのだが、彼はなかなか姿を現さない。8月になって初めて顔を見せた年もあったから、まだまだなのかもしれないが、もうとっくにどこかにはいるはずなのだ。
 2週間ほど前から、あちこちで盛んにカエルの鳴き声がする。でも、それが庭から聞こえるのか、裏のアパートの辺りから聞こえるのか、少し離れた田んぼから聞こえるのか、見当がつかない。すぐ近くの軒下から聞こえるような気がする時もあれば、遠くの方から響いてくるように聞こえる時もある。
 それに、カエルの声であることは確かだけれど、それがトノサマガエルの声なのか、アマガエルの声なのか、ガマガエルの声なのか、判別はつかない。
 カエルの声は、雨を予告する。雲行きが怪しくなり、湿気た空気が漂い始める夕刻に、勢いを増す。さあさあ、おいらの出番だぜ、とでも言うように。

 ミカエルさんが今年も元気に姿を現すことを願ってやまない。




お知らせ:
生き物に関する記事をまとめた新しいカテゴリー《鳥、蛙、魚、犬、猫》を作りました。過去のミカエルさんの話もこの中にあります。

 



 
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by koharu65 | 2012-06-02 16:36 | 鳥、蛙、魚、犬、猫

山の上の寺院(夢の話)

 久しぶりに夢の話。
 最近夢を見ない。見ても、ほとんど覚えていない。
 それが昨夜、久々にはっきりと印象に残る夢を見た。

 私はどこか異国の地で、学生時代の友人とともに、旅行に来ている。山の中腹の見晴台に着いた。見晴台から正面に、高い山がそびえたっているのが見える。その山の頂上に、ちょうどチベットのポタラ宮のような、美しく複雑な形の寺院が建っていた。そこからの眺めはとても美しくうっとりとする。
 ところが、もっといい位置で眺めようと場所を少し変えてみると、さっき見た美しい寺院は別のものに形を変えてしまった。それは寺院そのものが変化したというよりも、私の見る角度によって、さっきまで見えていたものが他のものによって隠されてしまったという感じだった。おかしいな、これはさっき見えていた景色と違うようだけれど、でも方角は確かに違いない。
 そのうちに日が暮れてしまった。寺院のたくさんの小さな窓のあかりが浮かび上がる。昼間の美しい寺院をまた見たいと思う。明日帰国するので、今日中に山を下りる予定だったけれど、どうしようか。
 道を少し進むと、山の上まで行くロープあって、そのロープを移動する滑車に人がぶら下がり数珠つなぎになってどんどんと送られていく。ロープウェイのように人が乗る籠や椅子があるわけではない。人はただ自力で滑車にぶら下がっている。
 一般の参拝客と、恐ろしいような顔をした痩せた男が交互に並んでいる。痩せた男は皆同じ顔をして、体にぴったりとしたTシャツと七分丈のパンツを穿いていた。男は係員のようだ。一人一人の客の後ろに付き、背を押し出すようにしながら、輸送の役目を担っていた。
 私もそのロープで寺院まで行こうかと思う前に、目が覚めた。
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by koharu65 | 2012-06-01 23:02 | 夢の話