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過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65

『柳美里不幸全記録』 - 柳美里

 柳美里『ファミリーシックレット』に続き、『柳美里不幸全記録』を読んだ。800ページもある分厚い本。寝ながら読むには不便だ。重くて腕が支えていられない。
 題名と表紙の写真(柳美里本人のセミヌード)は編集者のアイディアだということだけれども、タイトルと中身がそぐわない。日記には亡くなった人への愛が溢れている。(しかし、その愛を受け止める人が不在だということを考えると、やはりこれは不幸の記録なのだろうか?物事はどちらから眺めるかによって見え方が違ってくるものだけれど。)
 これは2001年11月から2006年4月までの日記で、亡くなった彼女のパートナー、東由多加に宛てた“交換日記”という形を取っている。
 息子のこと、母のこと、父のこと、新しい年下の恋人のこと、日常の様々を記しているので、まるでご近所さんの生活を覗き見ているような気分になる。柳美里という名の知れた作家の赤裸々な私生活を目の当たりにすることができるのだ。タイトルも表装も内容もすべてが、俗人の好奇心をそそるために作られているように見える。読者の頭の中に、柳美里ってこういう人なんだ、というイメージができあがっていく。

 『柳美里不幸全記録』は日記だ。日記とは “日付のあるその日の記録”であり、一般的には、その日起きたことをその日に書く。現在から遡って、書き損ねた過去のことを書くときもあるかもしれないが、普通はせいぜい数日遡るくらいなんじゃないだろうか。
 しかし、日記も終盤に近づく頃、え?と思わせる記述が現れる。途中、筆を止めて一年が経過する。ところが現実の時間は一年経っているにもかかわらず、そしてその事を明言しながら、一年後に、筆を止めたその日の翌日の日付から日記を再開しているのだ。再開された日記は、それまでの文章と変わりなく、まるでその日に書かれたかのように、会話の一言一句まで再生されている。テープレコーダーで録音したかのように、すべてを記憶し再生することが可能だろうか?

 そう言えば、『ファミリーシークレット』の冒頭にこんな場面があった。
 柳美里本人がブログに書いた記述によって、全国から通報があり、児童相談所の職員が虐待の真偽を確かめに柳美里の自宅にやってくる。その時小説の中の柳美里は職員に対して、こう言うのだ。
 「作家の書いたものなんて、私小説であっても、エッセイであっても、ブログであっても、虚実ないまぜなんですよ。」

 『不幸全記録』も『ファミリーシークレット』も、実在の人物が実名で出てくるのでつい全部がまるまる本当の話として読んでしまいがちなのだけれども、日記の日付や、職員とのやり取りを借りた“断り書き”を小説家の仕掛け・技巧と取ると、話全体をやはり創作されたひとつの物語だと受け止めるべきだろう。
 『ファミリーシークレット』では、父親の記憶の中の過去と、娘の記憶の中の過去が大きく違っていることが話が進むにつれて明らかになっていく。父親が記憶の中で作り上げた物語と娘が経験した事実の相違と。父は自分自身に嘘をついているのか、それとも自分自身で作り上げた虚構を本当に信じ込んでいるのか。そしてそのふたつの異なった記憶をふたつともに語る作家の“吐く”物語もまた、“虚実ないまぜ”なのである。

 客観的な事実なんてどこにも存在しないのかもしれない。この世はそれぞれの人間が作るそれぞれの主観の交錯によって成り立っているのかもしれない。(芥川龍之介の『藪の中』のように。)そして、事実が永遠に探り当てることのできない藪の中にある一方で、主観的な人間の感情はそれぞれの人間にとって、それぞれに生々しく、それぞれに真実らしく、それぞれに確からしく思われる。
 暗闇の事実を手探りで追い求めることと、虚構の上に成り立つ感情こそ確かなものであるとして生きることと。柳美里の書くものを読んでいると、感情があまりにも激しくてとことん追及して戦う姿勢を貫き続けるので、激しく突き動かされる感情こそが生の根本であり支えであるかのようで、自分を支えるそれらの感情を常に再現し続けるために虚構(物語)を積み重ね続けているのではないかと思った。
by koharu65 | 2010-09-21 22:41 | 本・小説・映画