三つ子の魂 - 从小看老
2007年 06月 18日
三つ子の魂百まで、と言うように、人の気質というのは子供の頃からずっと変わらないものなのだろう。時々自分の性格にうんざりすることがあるけれど、これはもう一生付き合わざるを得ないものだと諦めている。
昔は自分が何者にでもなれるのだと信じていた。意思の力を信じていた。特に学生の身分であるときは、自分の進路は今現在、単に保留されているのであって、自分の意思で何かを選択するまでは何者にでもなれる可能性を自分は所有しているのだと漠然と思っていた。しかし振り返ってみると、人生の行路というものは、もっとずっと早い時期に方向性が決定付けられているに違いない。三つ子の魂が志向するものは、十四のときも、二十歳のときも、そして四十になっても六十になってもきっと変わらないものなのだ。道は始めから特定の方角に向かってまっすぐに伸びている。
こういうふうに意思の力を軽視し運命に身をゆだねることを是とする私自身の考え方自体に、己の力で人生を切り開こうという力の欠如という本質が表れているのかもしれないと思うと、やっぱりうんざりせざるを得ないのだけれども。
そんなことを考えていたら、ふと、夏目漱石の小説『行人』を思い出した。その中に次のような一節がある。
……彼女は初めから運命なら畏れないという宗教心を、自分一人で持って生まれた女らしかった。その代り他人の運命も畏れないという性質にも見えた。
「男は厭になりさえすれば二郎さんみたいに何処へでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。あたしなんか丁度親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立ち枯れになるまでじっとしているより外に仕方がないんですもの。」
自分は気の毒そうに見えるこの訴えの裏面に、測るべからざる女性の強さを電気のように感じた。……
[从小看老]
俗话说:三岁看大,七岁看老,也就是说一个人在幼儿期形成的气质到老也不会改变的。我有时会厌烦自己的性格,看来这也是无可奈何的,到死也就这个样了。
以前我认为只要自己有坚强的意志,没有什么干不了的事。尤其在学生时代,我一直茫然的认为,自己的前途在选择之前,没有什么事物能阻挡我达到自己的目的。但回顾看来,在人生很早的时候其行路的方向已经决定下来。三岁的孩子的精神所向往的东西是十四岁时、二十时、连到四十、六十岁也一定不变的。道路从开始向特定的方向一直伸延着。
这种轻视意志的力量而愿意听天由命的想法也许包含着一种本质;是没有能力靠自己的意志打开自己人生的路,我不得不厌烦这种气质。
我忽然想起来了夏目漱石的小说“行人”。其中有如下的一节。
……
※我不敢翻译一位伟大的作家的文章,怕损坏其原文的品位,我打算得到“行人”的中文版后在这儿贴上。