当時、卒業前に各自色紙を用意してクラスメートに回覧し色紙の持ち主に対しメッセージを書く、という慣わしがあった。戻ってきた色紙を見ると、その中に「何を考えているかわからないお人やな。」という言葉があった。耳慣れない関西弁だったせいもあって(私の地元は関西ではない)、その言葉は私の脳裏に焼きついて、いつまでも忘れなかった。
それから10年以上経った同窓会でそのクラスメートに再会した私は、たぶん覚えていないだろうけど、と前置きをしたうえで、彼に色紙の話をした。すると、意外なことに彼は
「覚えてるよ。」
と言った。
「わざと書いたんだよ。」
冷凍保存された中学生の私に貼り付いていた氷がすうっと溶けだしていくような感じがした。外部から切り離されて自分のイメージの中だけで存在していた中学時代の自分という記憶の像が、彼のその言葉によって、“今”という時間と繋がって外部との接触を取り戻したのだ。当時の彼の言葉とそれを覚えていた今の彼の記憶と、それから私自身の記憶とが、他人の視点を取り入れる余裕もなく自分のプライドを保つために必死の思いで維持していた殻の中の自分の姿を立体的に照らし出すことによって、記憶の中に閉じ込められた中学生の私が甦ってほっと息をついたような気がしたのだった。
しーっ、静かに
耳を澄ませば
ちりちりと
羽をふるわす音がする
目を凝らせば
暗闇に
ゆらゆらと
立ち上る鱗粉
こわがらないで、
こっちへおいで
行き場を失った彼女を
両手でそっと つかまえて
光の中へ 解き放つ
やわらかな光の中へ
姪を迎えに幼稚園へ行った。園から出て駐車場に戻ると、車がない。いくら探しても私の乗ってきた車がないのである。気付くと、駐車場の地面に暗く深い穴が空いている。ああ、私の車はこの穴に沈んでしまったのだと思った。穴に落ちた車は一台だけではないらしい。数人の人が穴を覗き、穴の中に紐をたらしている。真っ暗で底は見えない。紐を手繰り寄せると暗闇の中から、自分の持ち物が上がってくる。紐の先に鉤がついていて、自分の荷物を鉤に引っ掛け穴の中から取り出しているらしい。
いつの間にか、私の父も穴を覗き込んで紐をたらしている。私も覗こうと穴に近づくと、穴の淵が傾斜していて、しかも足元には新聞紙が敷いてあり、穴に向かって滑り落ちそうになった。私はあわてて、新聞紙を跳ね除けながら、穴から離れる。私は車の中に何か大切なものが置いてあっただろうかと考えながら、持ち物を紐で上げる人々を見ていた。
恐ろしいものに襲われて逃げ回ったり、自分の身に危険が迫ったわけでもない。ただの穴の夢だ。けれども、とても恐ろしい感じがした。深く底のない穴に飲み込まれていく得体の知れない恐怖が支配していた。
学校の広い校舎で大勢の学生が廊下や階段を行き交う中、私は萩原朔太郎の背中を追いかけて走る。人ごみを縫って彼の背中を追いかけるのだが、ちっとも追いつかない。始めは黙って追いかけるのだが、そのうちに声を上げる。
「はぎわらさ~ん、はぎわらさ~ん。」
と叫ぶが、彼は振り向かない。途中、階段を封鎖していた柵をようやく乗り越えたりしながら、校舎をひとまわりして、とうとう1階のホールで姿を見失った。私は周囲の学生たちに、今、ここに萩原さんがいなかったか、と聞くが、誰もが首を振るばかりだった。
私は突然眩暈がして倒れた。意識が徐々に失われていく。周りを学生たちが取り囲む。薄れていく意識の中で、誰かが助け起こしてくれるのを期待するが、皆ただ黙って私を見下ろしているだけである。突然わけのわからない怒りが込み上げてきて、私はすぐ近くにいた男の服の裾を掴み引きずり倒した。怒りは暴力となって、その男をむちゃくちゃに引きずりまわし、服を引き剥がす。
目が覚めたとき、まだ体内に怒りと暴力の感情のかけらが残っているような気がした。たまに夢の中で喧嘩をしたり大声で叫ぶことがあるけれど、それで、昼間は気付かない抑制された感情が発散されているのかもしれない。
「XXちゃん(私の名前)とXXちゃん(妹の名前)って兄弟でしょう?どうして『ありがとう』って言うの?」
と不思議そうな顔をして聞いた。
この姪にはひとつ上の姉がいる。
「え~?XXちゃん(姪の名前)はお姉ちゃんに『ありがとう』って言わないの?」
「言わないよ。」
それを聞いて、私はこの小さな姉妹の関係にとてもほほえましいものを感じた。彼女たちの間には、「ありがとう」などという言葉を介在させる余地などないのだ。子犬のようにじゃれあって、喧嘩をしても助け合っても、それはもうただ自然に二人がそこにいるからというだけの話であって、言葉で関係を繋ぐ必要などさらさらないのだ。
そういえば、中国人に「日本人って、親が子供に『ありがとう』って言うんだね。変だ。」と言われたことがある。
有一天,妹妹为了某件事对我说谢谢的时候,恰巧被在傍边的5岁的侄女(我弟弟的孩子)听到了,她一脸的不可思议,纳闷地问:
“你和她是姐妹吧,为什么还要说“谢谢”呢?”
她有个比她大一岁的姐姐。
“咦?你不对姐姐说谢谢吗?”
“当然不说呀。”
听了这句话,我感到这两个姐妹之间的关系很紧密。她们之间没有 “谢谢”这种话介入的余地。像小狗一样经常玩耍,吵架、互相帮助都是因为两个人自然而然地总是在一起不分开,也就没有必要用语言来努力维持关系了。
我想起以前有个中国人跟我说过“你们日本人,母亲怎么对孩子说“谢谢”呢?奇怪。”。
具体的な出来事の説明をしなくていいのがいい。ある出来事を契機として起こった感情を、出来事の説明を抜きにして語ることができる。思ったことや感じたことを、どんなイメージに乗せて言葉にしたら、その時の「想い」が一番強く的確に表現され得るのか、試行錯誤しながらあれこれ考えるのがとても楽しい。
週に一度、ネットの投稿サイトに詩を投稿している。皆、素人なのだけれど、言葉の発想や使い方がとても上手い人がたくさんいる。自在で柔軟な発想は若いうちに鍛えられるものなのかもしれない。私はちょっと遅きに過ぎた感がある。
余談だが、昔、母から貰った手紙にしばしば「兎に角」という言葉が出てきて、「うさぎにつの」って何だろう、としばらくの間思い悩んでいたことがある。使う場所からすると話を転換するときの慣用句とかことわざらしいという見当をつけた。その文字を眺めていて、ある日突然、それが「とにかく」であるとわかった時には、おかしくておかしくてたまらなかった。それで今でも、「とにかく」という言葉に出会うと、「兎(うさぎ)に角(つの)」という漢字がすぐに目に浮かぶ。
すべてを吐き出したなら 楽になれるのだろうか
何もかも話し合えたなら 溶けあうことができるのだろうか
目の前の
山も川も空も風も
白い月も夕焼けも
鳥の声も魚のはねる音も
すべて私のもの
世界は私のもので
私は世界のもの
腕を広げ身を任せれば
世界は私を受け入れる
私は山に川に空に
抱かれ溶けていく
けれど
私とあなたの世界はふたつ
溶けあうことのないふたつ
何もかも話し合えたなら
何もかも伝えきったなら
ふたつがひとつになるのだろうか
私があなたのものに
あなたが私のものに
なるのだろうか
世界はふたつ
溶けあうことのないふたつ
ブランド品の価格には材料費や手間賃以上のものが上乗せされている。ブランド品を求める人々は、「鞄」や「時計」という機能以外の何を求めているのだろう。「物を入れる道具」や「時間を見る道具」以外の何を買うのだろう。ガラスケースの中に麗々しく納まっている品物を次から次へと眺めていたら、それらがぶら下げている値札の数字とモノに機能以外のものを求める人間の欲望とが、私の周りでくるくるとワルツを踊りだした。
朋友托我去名牌专卖店替他购买送给别人的圣诞礼物。我看了看商店的柜台和橱窗里呈列的提包、手表以及装饰品等东西,就头晕了。对我来说这个任务负担过重。几十万日元的名牌提包或手表确实很美。特别是爱马仕,她的典雅让人陶醉。不过,只要想像到人们按照标价牌上的金额买卖那些东西的样子,我就头晕。
名牌商品的价格不只是材料费和人工费,还加上了别的因素。要买名牌的人除了要求“提包”或“手表”的功能以外还要求什么呢,究竟想买到“装东西的工具”或“看时间的工具”以外的什么附加值呢。我一个一个地看着玻璃柜台里摆放的那些很耀眼的物品时,眼前仿佛浮现出了哪些物品的标价牌上的数字和人们企图购买到物品功能以外附加值的欲望一起跳华尔兹舞的情景。
幸せ?
幸せかもしれない
幸せなんじゃないかな
幸せだろう
幸せらしい
曖昧な幸せの私
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最後の一行は、大江健三郎の本の題名を部分的に拝借しました。