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過去を振り返れば羞恥心に苛まれ、未来を想像すれば不安に襲われる。ただ道を踏み外さないように、足元だけを見つめて一歩一歩進むのが精一杯。だからせめて足跡を残そう。


by koharu65
 村上春樹のエッセイ集、『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』(マガジンハウス/2011年)を読んだ。雑誌アンアンに連載されていたエッセイをまとめたもので、一回分が3ページしかなく、ちょっとした時間にちょっとずつ読める。
 最近布団に入るとすぐに眠くなってしまって、長い小説などは前後に行ったり来たりしてなかなか結末までたどり着けないのだけれども、この本はそういう時にちょっとずつ読むのにとても適している。

 この本の中で、村上春樹は、エッセイを書くに際しての3つの原則を挙げている。人の悪口を具体的に書かないこと、言い訳や自慢をなるべく書かないようにすること、時事的な話題は避けること。しかし、この3つの条件をクリアしようとすると、話題は限りなく「どうでもいいような話」に近づいていくのだと言う。

…僕は個人的には「どうでもいいような話」がわりに好きなので、それはそれでかまわないんだけど、ときどき「お前のエッセイには何のメッセージもない。ふにゃふにゃしていて、思想性がなく、紙の無駄づかいだ」みたいな批判を世間で受けることがあって、そう言われると「ほんとうにそうだよな」と思うし、また反省もする。…


 と、作家本人はそう書いているが、「どうでもいいような話」の連載をこうしてまとめて読んでみると、そこにはやっぱり何かしら一貫したメッセージが感じられる。それぞれの人間は、それぞれの「どうでもいいような」日常を、それぞれ大切にしながら生きているのだ、ということが、伝わってくる。

 本のタイトルの『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』は、エッセイの中の「おおきなかぶ」という話と「アボガドはむずかしい」という話、ふたつの題名をならべたもので、前者は有名なロシア民話を題材とした話、後者は熟したアボガドを見分けるのはむずかしいという話で、それぞれの個別で具体的な話には何ら特別なところがない、つまり「どうでもいいような話」にもかかわらず、そのふたつを『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』と並べると、そこに不思議な空間が現れる。「おおきいかぶ」と「むずかしいアボガド」という尺度の違う比べようのないものを並列に置くことによって、相関性のないふたつの世界が同時に成立する空間を作りだしている。
 小説を通して世界に向けられた村上春樹のメッセージが、エッセイでもまた同じように世界に向けて語られている。

 夜ごと読むたびにページ数が残り少なくなっていくのが惜しいと思う珠玉のエッセイ集であった。
# by koharu65 | 2012-03-18 20:46 | 本・小説・映画

中国映画『鬼が来た!』

 少し前に、『譲子弾飛(弾丸を飛ばせ)』という中国映画の感想を書き、その際最後の方で、同じ監督の『鬼子来了(鬼が来た)』という映画に少し触れた。
 (以前の記事:http://koharu65.exblog.jp/17547247/
 これは2000年公開の中国映画で、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞した作品である。監督は姜文。

 舞台は1945年、終戦間近の中国大陸。素朴で善良な人々が住むある小さな村に、闇にまぎれて現れた男が、ひとりの日本兵の捕虜を、数日という約束で村人に預ける。ところが約束の日を過ぎても男は戻らず、村人たちは捕虜の扱いに困ってしまう。
 自分たちの食料すらおぼつかない中、やっかい者でしかない捕虜を殺すか殺さざるべきか。村人たちは何日も侃々諤々の議論を交わす。日常生活を営む中で、目の前の一人の人間を殺すことがどんなに困難なことであるか。村人と日本人捕虜とのユーモアたっぷりの奇妙なやり取りがしばらく続く。
 ところが、日本軍の部隊の隊長が舞台に現れると、この友情物語はたちまち殺戮の場面へと変容する。
 そして終戦後、支配層が国民党に取って代わられると、その国民党のリーダーの命令によって、公開処刑が行われる。首を切られるのは、日本の部隊に虐殺された村人の生き残り。男は復讐に駆られ、国民党に捕らわれた日本兵の捕虜を次々と切り殺し、捕虜を殺した罪で公開処刑されるのだった。
 日本軍を駆逐した中国の部隊を必ずしもヒーローとして描いていないところからして、この映画は確かに単純な反日映画ではない。「鬼」というのも、日本人だけを指しているのではない。おそらく「鬼」というのは、日常生活で人間と人間との間に自然に醸し出される情を踏みにじるような非人間的な存在を象徴しているのだと思う。
 ラスト近く、公開処刑の場面では、同胞の首が切られるというのに、見物に集まった中国人たちの好奇心いっぱいの、にやにやした顔が映し出される。ここで私は魯迅を思い浮かべた。これは100年も昔に魯迅が指摘した人間の愚かさではなかったか。魯迅はペンをもって愚かな人間の精神を変容せんとした。この映画には魯迅ほどの切実な思いが込められているだろうか。

 
# by koharu65 | 2012-03-16 23:15 | 本・小説・映画

福寿草

 東日本大震災から丸1年が経ち、ここ数日、新聞やテレビで特集が多く組まれている。大切な身内を失った人々の声に触れ、そのたびに辛い気持ちになる。何をどう言っても慰めにはならないのだろうと思うし、時が解決するのかどうかもわからない。喪失感は、もしかしたら、時が経てば経つほど増大し鮮明になるのかもしれないし。

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 以下、3月の写真。

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 先日、母が植木鉢の福寿草を買ってきた。

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 これは玄関の下駄箱の上に飾られたお雛様たち。
 私が子どもの頃、我が家での雛祭りは木で組んだ7段の段々に赤い毛氈を敷いて、一番上にお内裏様がいるけれど、その下には、もらい物やお祝い品のガラスケースに入れられた雑多な人形たちが飾られていた。藤娘や博多人形、市松人形など。
 木で段々を組み立てるだけでも大変な作業なので、私たちが大きくなるに従って、いつしか飾るのをやめてしまった。

 
# by koharu65 | 2012-03-10 16:05 | 雑感

きわめて要領の悪い虐殺

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』にこんな話が出てくる。(小説の中のお話なので、もちろんフィクションです。)
 戦時中、中国大陸の新京動物園にて、戦局が厳しくなる中、猛獣の処分を命令された日本人の中尉が、兵隊たちを引き連れて動物園へやってきた。しかし薬殺用の薬もないまま、彼らは動物たちをどう殺したらいいかわからず、四苦八苦しながら、かなり手際の悪いやり方でやっと処分を終える。
 ひと息ついた日本人の獣医に向かって、中国人の雑役夫が、こう言います。

 彼らは獣医に言った。先生、もし死体をそっくり全部譲ってくれるなら、我々があと始末をいっさいひきうけてあげよう。…(略)…今となってはもう遅いけど、ほんとうは頭だけを狙って撃ってほしかったよ。そうすれば毛皮もいい値段がついたのにね。これじゃまったく素人の仕事だ。はじめから俺たちにまかせてくれれば、もっと要領よく始末してあげたのにさ。獣医は結局その取引に同意した。任せる以外にあるまい。なんといってもここは彼らの国なのだ。
 やがて十人ばかりの中国人たちが空の荷車をいくつか引いて現れ、倉庫から動物たちの死体をひきずりだしてそこに積みこみ、縄でくくり、上からむしろで覆いをかけた。そのあいだ中国人たちはほとんど口をきかなかった。表情ひとつ変えなかった。積み込みが終わると、彼らは荷車を引いていずこへともなく去っていった。動物たちの重みで、古い荷車はあえぐような鈍い軋みを立てた。それがその暑い午後におこなわれた動物たちの――中国人たちに言わせればきわめて要領の悪い――虐殺の終わりだった。…
 

 “きわめて要領の悪い虐殺”の終わりに困惑を感じる日本人獣医と、てきぱきと要領よく黙々と現実を処理していく中国人、この場面が強烈に印象に残っています。
 そして、この話に象徴されるような中国的気質、逆から言えば日本人の弱点というのが、私が中国に(中国人に)魅かれる原因のひとつなのかもしれない。
# by koharu65 | 2012-03-01 23:39 | 雑感

中国映画『譲子弾飛』

 中国映画『譲子弾飛』(弾丸を飛ばせ)を見た。大陸では昨年大きな話題を呼び、興行的にも大成功を収めたという。日本では未公開。

 2010年12月公開
 監督:姜文
 主演:姜文、周潤発、葛優、劉嘉玲、陳坤など

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 辛亥革命(1911年)後、未だ統一ならず軍閥が割拠する中国を舞台として、元革命家の匪賊と、地方へ派遣される県の長官と、地元の有力者との、三つ巴の知恵と肉体の戦いを描く。
 誰が正義で誰が悪で、誰が味方で誰が敵かがわからないようなところ、権謀術数の嵐、二転三転する人間関係、など、おお、これぞ三千年の天下取りの歴史を繰り返す中国ならでは、といった感じだ(この映画では天下取りと言っても、小さな町の支配権争いにすぎないが)。

 中国きっての三大俳優の競演という華々しさ、息もつかせぬ騎馬戦、銃撃戦、肉弾戦のシーン、暗喩に満ちたセリフ、などから大評判のヒット作となった。
 まあ、評判どおり、確かにおもしろかったことはおもしろかった。暗喩や故事成語の引用だらけのセリフをすべて理解するにはネイティブでさえ難しいようだが、セリフ抜きにして、三人のベテラン男優の演技の迫力に終始圧倒される。

 この作品が評判となったひとつの理由に、先程も少し触れたセリフや設定の暗喩がある。100年前の時代を借りて、現代の政治を風刺していると、ネットを中心として話題になった。
 しかし、私は、現実の社会に一石を投じる程の風刺の力を、この映画の映像とストーリーから感じ取ることはなかった。それは私の中国語の理解能力不足に起因するものではないと思う。映像も音楽もストーリーも演出も演技も全部ひっくるめて映画全体がひとつの作品である以上、セリフの一部や設定の暗喩を理解できるかどうかによって、作品全体から受ける印象が大きく変わることはないと思う。
 そして、この作品に対する私の印象は、皮肉や風刺の調味料をぱらぱらと振りかけた娯楽映画だということ。ほのめかしによって観客に後からあれこれ想像させたり議論させたりする手法は、単に知的好奇心を誘う遊戯にすぎない。ある日本の論評では、よくぞ検閲を通ったと大げさに書いてあったが、これはむしろ当局が、これを、社会に大きく影響を及ぼすような作品ではない娯楽映画だと、判断したからこそではないか。

 これだけメジャーな俳優を用い、活劇としての面白さを備えた映画であるにもかかわらず日本で未公開なのは、セリフや一部の設定のわかりにくさから日本語訳が難しいという部分が大きいのではないだろうか。だとすると、余計な調味料を振り掛けて本来の味を損なうより、純粋な娯楽映画として仕上げた方が、マーケットをもっと広げることができたかもしれない。

 以前、『鬼子来了(鬼が来た)』というこの監督の作品を見た。これにも私はあまり感心しなかった。社会や人間の醜い部分を暴いて、人が描かないものを描いたといって持ち上げるのは、簡単すぎる。泥の中から何を掬い上げ、どんな花を咲かすのか、私が芸術作品としての映画に期待するのは、新しい世界観を切り開く力である。

 
# by koharu65 | 2012-02-26 18:04 | 本・小説・映画